翻訳|Oceania
大洋州ともいう。「オセアニア」の名称が使用されたのは新しく、18世紀以降とされているが、オセアニアの地理的範囲の確定については、現在、かならずしも定説があるとはいえない。いずれかといえば、中部太平洋から南太平洋に広がる海域とオーストラリア、ニュージーランドを含む総称である。したがって、オセアニアは、文字どおり海洋を中心とする地理概念である。現在の総人口はオーストラリア、ニュージーランドを含めて約2900万人、陸地面積は約850万平方キロメートルで、面積、人口とも六大州では最小である。
この地域は、文化的あるいは人種的区分から、おおむね赤道以北に位置するミクロネシア(小さな島々の意)、赤道以南で日付変更線以西のメラネシア(黒い島々の意)、同じく以東のポリネシア(多くの島々の意)およびヨーロッパ系人種が多数を占めるオーストラリア、ニュージーランドに区分される。
ミクロネシアとポリネシアでは、人々の肌の色は東アジア人同様の明るい褐色で、出生時腰部に児斑(蒙古(もうこ)斑)を残すなど、アジア系人種の特徴を強く示している。これに対して、メラネシア人は、濃い褐色もしくは黒色に近く、南方系アジア人の特徴を示している。オーストラリアとニュージーランドは、いずれも18~19世紀にかけて移住してきたイギリス系白色人種が多数派であるが、先住民は、オーストラリアではアボリジニーとよばれ、その起源は明確ではない。ニュージーランドの先住民は、マオリとよばれ、ポリネシア系人種である。ハワイも先住民はポリネシア人であるが、いまやごく少数となり、ポリネシア文化は芸能などにわずかに残存する程度となっている。
オセアニアの島嶼(とうしょ)に、いつ、どのように人々が移住してきたかについては、議論の段階にある。この地に残されているラピタ式土器は3000年から4000年の経過を示しているが、それ以上さかのぼる手掛りはない。移住経路はアジア大陸からの直接航海説と南米からの移住説があるが、いずれもそれぞれの文化的痕跡(こんせき)を有しており、いずれかといえばアジア説が有力であるが、南米からの移住を主張するノルウェーの学者ヘイエルダールは、1947年にチリのサンティアゴから筏(いかだ)船コン・ティキ号で漂流実験し、100日余り後にポリネシアのマルケサス諸島に到着することにより、南米からの容易な移住方法を実証したことがある。
オーストラリアとニュージーランドを含め、ヨーロッパ人がオセアニアに流入したのは、18世紀末から19世紀前半にかけてである。19世紀初頭、ロンドン伝道協会を中心とする宣教師がこの地に渡来し、人々は急速にキリスト教化した。これにより、従来の祖霊信仰、アニミズムなど土着の宗教は衰退し、マオリ、アボリジニー、パプア・ニューギニア山間部の人々を除き、いまやキリスト教がこの地では支配的な宗教となっている。しかしながら、いまなお人々の日常生活のなかには、伝統的な共同体的思考方法が強く残存し、普段の衣食住あるいは冠婚葬祭など儀礼行為のなかにオセアニアの価値観が表示されている。
オセアニアがヨーロッパ諸国によって植民地化されたのは19世紀のことであるが、それ以前にもこの地域の人々は奴隷貿易の犠牲者であった。またヨーロッパ人がこの地に持ち込んだ悪疫により、人口は各地で約3分の1(推定値)に激減するという悲劇も伴っている。
オセアニアの人々がそれぞれ独立国を樹立したのは、第二次世界大戦後の1960年代以降であった。1962年の西サモア(現、サモア)をはじめとして、ナウル、トンガ、フィジー、パプア・ニューギニア、ソロモン諸島、ツバル、キリバス、バヌアツなど、主として1970年代がオセアニアの独立時代といえるであろう。しかしながら、いまなおミクロネシアのグアム島、マリアナ諸島は、事実上アメリカ合衆国(以下アメリカと略)の海外領であり、ほかにも、タヒチ島を中心とするフランス領ポリネシア、ニュー・カレドニア、アメリカ領サモアなど非独立地域が多在し、このうちニュー・カレドニアでは、独立をめぐる流血の惨事も経験している。また、ミクロネシアのパラオ、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島は、防衛とこれに関連する外交の権限をアメリカに委譲する「自由連合国」となっている。これを独立国とするか否かについては国際法上議論がある。ポリネシアにもニュージーランドとの自由連合国であるクック諸島、ニウエがある。このように、オセアニアには政治的に未解決の問題が残っている。
なお以下の章では、オーストラリア、ニュージーランド以外のオセアニア地域の国々を中心に記述する。
[高橋康昌]
オセアニアは、ポリネシアからミクロネシアにかけての洋島(火山島およびサンゴ礁島)、メラネシアからニュージーランドに至る陸島、ゴンドワナ大陸の一部であるオーストラリア大陸の3地域に区分される。環太平洋造山帯は新生代の地質、地形に大きく影響を与えている。太平洋西部では列島を形成し、地震帯の分布とも一致して不安定な地帯となっている。これはケイ酸を含む安山岩系の岩石に富み、安山岩線とよばれる地質構造線から大陸側に数百キロメートルの幅をもった帯状の地帯をなしている。すなわち大陸側の花崗岩(かこうがん)性のシアルと大洋底の玄武岩性のシマの境界帯をなす。この地域の島嶼が安山岩系なのは、島の底部にケイ酸の多いシアル層があるため、玄武岩質の岩漿(がんしょう)が地殻内部から表面に出る途中で安山岩質に変質されるからである。安山岩線は海溝とほぼ一致し、日本列島の東側に沿って南下し、カロリン諸島の西側を通り、ニューギニアの北へ続く。さらにソロモン、フィジー、サモアの各島嶼の北を回り、直角に南下してトンガ海溝、ケルマデック海溝の東をかすめ、ニュージーランドの東方へと続く。
[浅黄谷剛寛]
ポリネシアからメラネシアの島嶼は、玄武岩からなる火山島ないし火山を基盤にもつサンゴ礁の島がほとんどである。火山島は円錐(えんすい)形の山頂部が海面上に現れたものである。火山体としては巨大で、海洋底から5000~1万メートルもの高さに達したものである。これは遠方から確認できるので「高い島」とよばれ、裾礁(きょしょう)をもつものが多い。ハワイ諸島、タヒチ島、ラロトンガ島(クック諸島)はその代表例である。ことにハワイのマウナ・ケア山は5500メートルの海洋底から標高4205メートルの高さにそびえ、比高は世界屈指である。
サンゴ礁は、熱帯海域で火山性の基盤のある所に限られる。一般に低平であるため、高い島に対して「低い島」といわれる。環礁はもっとも一般的なサンゴ礁で、陸地(礁州)がほぼ環状に中央のラグーン(礁湖)を取り囲んでいる。マーシャル諸島、ギルバート諸島、ライン諸島、ツアモツ諸島などは、ほとんどがこの例で、直径1~2キロメートルから数十キロメートルのものまで多様である。クウェジェリン環礁(マーシャル諸島)は長径126キロメートル、短径32キロメートルで世界最大である。隆起サンゴ礁はマカテア(石灰岩台地)をもち、面積はおおむね数十平方キロメートル以下で、ニウエ島の約260平方キロメートルは例外である。オーシャン島、ナウル島、マカテア島(ツアモツ諸島)、トンガタプ島(トンガ諸島)などがこの例であるが、数の上ではあまり多くない。
陸島は環太平洋造山帯の一部をなし、ニューギニアから東へ連なるメラネシアの島嶼がその大部分を占める。ニューギニア島は世界第二の大島で、島の形は不死鳥にたとえられている。第三紀の褶曲(しゅうきょく)山脈が、西端の「鳥の頭」から東部のオーエン・スタンリー山脈まで2400キロメートルにわたって連なり、最高峰ジャヤ山は5030メートルに達する。この脊梁(せきりょう)山脈の北にはセピク川、南にはディグル川、フライ川などがあり、その沖積平野が開けている。やや小規模であるが、フィジー主島ビチ・レブの南東部にはレワ川とその河口に平野部が広がっている。その他の陸島には大河と広い平野はほとんどない。
[浅黄谷剛寛・高橋康昌]
オセアニアの島嶼は、大部分が南北回帰線の間にあり、熱帯に属する。他方、オーストラリア大陸および太平洋中東部に乾燥帯が広がり、その割合は六大州でもっとも広い。太平洋諸島の気候は主として気圧配置と、それに伴う風系によるところが大きい。陸地が非常に少ないことから、貿易風や偏西風が著しく優勢で、規則的である。しかしオーストラリアの北東部は季節風が発達し、大規模な風系を乱している。1月における中緯度高圧帯の中心部は、北半球ではハワイ諸島の北方、北緯30度付近、南半球ではイースター島の南方、南緯30度付近にある。他方、赤道低圧部はニューギニアを中心に東西に広く延びている。7月には、高気圧は南北双方とも勢力を増し、緯度にして10度ほど、北へ移動する。低圧部もカロリン諸島付近へ北上する。したがって、南東と北東の貿易風が会合する熱帯内収束帯は、1月には赤道の南に位置するが、7月には赤道の北へ移動し、ほぼ北緯5~10度付近で東西に走る。太平洋諸島の気候は、北東貿易風区、赤道多雨区、東部乾燥区、南東貿易風区、偏西風区の5区に分けられる。
北東貿易風区は北緯10~40度の間を東西に帯状に占め、ハワイ諸島、マリアナ諸島などがこの中に入る。年じゅう北東貿易風の影響を受け、高い島では風上に多雨をもたらし、風下とは大きな差がみられる。ハワイ諸島では風上で5000ミリメートル以上の年降水量があるが、風下のホノルルではわずか556ミリメートルである。赤道多雨区にはニューギニア島、ソロモン諸島が入る。晩夏から秋には南東貿易風が支配するが、晩冬から春には北東風と南東風が当区で収束し、年じゅう多雨である。東部乾燥区はナウルから、クリスマス島、フェニックス諸島を経て東方の海域へ延びる。これはフンボルト海流(ペルー海流)に連なる低温な南赤道海流のために大気が安定し、熱帯前線の発達が悪いためである。クリスマス島では年降水量が1000ミリメートルを切ることもあり、植生も貧弱である。南東貿易風区にはマルケサス、クック、トンガ、フィジーなどが入り、南東貿易風が卓越しているが、熱帯内収束帯が南下する11月~3、4月には、風向はやや不安定となる。フィジー諸島のビチ・レブ島のスバは風上にあり、年降水量3073ミリメートルであるが、バヌア・レブ島の風下のランバサは2030ミリメートルとスバに比べてかなり少ない。偏西風区は南緯30度付近から東西に帯状に広がり、南縁は暴風で知られる。
[浅黄谷剛寛]
オセアニアの動物は、他の大陸と異なり珍奇なものが多い。オランダの動物学者ウェーバーはマレー諸島の淡水魚分布を研究し、ウェーバー線を仮定した。この線は、セラム海、チモール海を通るS字形の線で、これを境に東へ進むほどオーストラリア系統の動物が多いことが知られている。これは、古い地質時代に、メラネシアやオーストラリアが他の大陸と分離したため、哺乳(ほにゅう)類などは特殊な進化をたどり、胎盤をもたない有袋(ゆうたい)類や単孔類のような特異なものが生まれたことを示している。陸生動物が比較的豊富なのはニューギニアと後述のハワイ諸島である。ニューギニアには有袋類のワラビー、単孔類のカモノハシがみられるが、霊長類、有蹄(ゆうてい)類などは原生のものがいない。他の島嶼では哺乳類は、イエネズミなど船や流木に乗って移住しやすいもの以外はきわめて少ない。今日一般にみられるブタ、ヤギ、ウシなどはほかから持ち込まれたものである。ワニはニューギニアにみられ、ヘビ類はニューギニア、ソロモンに多く、フィジー、サモアにもわずかに生息している。鳥類は太平洋諸島では、海洋上を自由に移動して孤島で繁殖する海鳥類が豊富にみられ、特異なものにニューギニアのゴクラクチョウ(フウチョウ)、飛べない鳥エミュー、ヒクイドリなどがいる。ハワイ諸島の動物相は豊富で固有種も多い。約6000種といわれる昆虫のうち60%以上がこの島々の環境に適応して進化した固有種であり、また鳥類にもハワイミツスイ類など特産種が多い。しかし、淡水魚類および両生類や爬虫(はちゅう)類は移入されたもの以外には生息しない。
[新妻昭夫・浅黄谷剛寛]
ニューギニアをはじめとする陸島では、ユーラシアに由来する植物が混在しているため種類が非常に豊富である。洋島では、孤立しているために固有種が保存され、個々に進化を遂げたものが多い。ハワイ諸島では自然植物の70%以上がこの地方特有のものである。ニューギニアのような大きな島では熱帯雨林が顕著で、高温多湿のため高木の樹間にはタケ、トウ、シダなどの下生えが密生し、樹幹には寄生植物が着生している。また小さな島でも部分的に熱帯雨林がみられ、フィジーのビチ・レブ島、サモアのツアモツ島などには卓越風の風上側に雨林を形成している。熱帯雨林ではないが、ニューギニアでは内陸高地にアフリカスギ、ナンヨウスギなどの針葉樹林があり、さらに高度を増すとブナへと移行する。
洋島では沿岸植生が一般的で、とくにサンゴ礁ではこれが唯一の植生である。耐塩性のココヤシ、パンダナス(タコノキ)、ニッパヤシ、バリントニア、モクマオウなどが自生し、潮間帯にはマングローブが群落をつくっている。とくにココヤシとパンダナスは住民の重要な生活基盤となっている。
[新妻昭夫・浅黄谷剛寛]
1513年、スペイン人バルボアはパナマ地峡からヨーロッパ人としては初めて太平洋を目撃し、それが南の方角に見えたため「南海」と名づけたといわれている。1520年、ポルトガル人マジェラン(マゼラン)はスペインの旗のもとに5隻の船を率いてこの未知の大海の横断に乗り出し、98日間にわたる艱難(かんなん)辛苦ののち、1521年3月6日マリアナ諸島へ到着した。マゼラン海峡を出てからの航海が穏やかな天候に恵まれたため、この大海原は「太平洋」と命名された。この諸島は最初、先住民の三角帆のカヌーから「ラテン帆の島々」と名づけたのであるが、先住民の略奪に手を焼き、「ラドロネス諸島(盗賊諸島)」と改めた(マリアナ諸島とよぶようになったのは1668年以後である)。その後、マゼランはフィリピンで憤死するが、生き残りの乗組員たちは喜望峰回りでスペインに帰国し、ここに世界一周の偉業が達成されたのである。
マゼラン以後、16世紀はスペイン人の活躍した時代であり、スペインはこの成功に勢いづき、第二次、第三次探検船を派遣した。しかし、当時の航海者たちは風の循環流に関しては、北東貿易風の知識がなかったため、太平洋を東から西へ横断するのみであった。1565年、ウルダネータによって偏西風で東航できることが発見され、以後、250年間にわたりフィリピンとメキシコのアカプルコ間にマニラ・ガレオン貿易が行われることになる。スペイン人の探検は、富の入手が可能なアメリカ大陸とフィリピンに集中し、オセアニアには関心が払われなかった。1571年マニラが創設され、マリアナが本格的に植民されるようになったのは、キリスト教の布教という目的もさることながら、マニラ・ガレオン貿易上脅威となっていたイギリスなどの海賊を、ここから締め出す戦略的見地からも重要であったためといわれている。
古くからギリシアの地理学者たちは、北半球の陸地の大きさとのつり合いをとるために大きな南方大陸が存在するはずだと考えていた。スペインの航海者メンダーニアAlvaro de Mendaña de Neyra(1541―1595)による1567年の探検は、この大陸と伝説上の黄金郷を発見することを主要な目的としてなされた。ペルーを出帆した彼は、奇妙なことには、ポリネシアのツアモツとマルケサス諸島の間、そしてまたソシエテ諸島の近くを通過しながらポリネシアの主要なこれらの諸島を目撃することなく、エリス諸島中の一島を望見し、ついにソロモン諸島に到着した。なおソロモンという名前は、この地が途方もない財宝に満ちた所という風聞から、新スペイン(ヌエバ・エスパニャ。植民地時代のメキシコ)に帰国するや名づけられた。彼はアメリカへの帰途にマーシャル諸島の一部を発見している。ソロモン諸島は1767年に再発見されるまで、いくぶん架空の島々とみなされることになる。1595年、彼はキロスPedro Fernández de Queirós(1560?―1614)とともにソロモン諸島への第二次遠征を行った。ペルーからの西航の途中で諸島を発見し、ペルーの総督の名にちなんでマルケサスと名づけた。ヨーロッパ人の知見に最初に入ったポリネシアの主要な諸島である。その後、サンタ・クルーズ諸島に到着したのであるが、目ざすソロモン諸島を再発見する前に彼は死亡した。ペルーに帰国したキロスは、「南方大陸」の探索のため1605年カヤオを出航した。この航海で彼はツアモツ諸島の一部をはじめとして、ポリネシアの中のいくつかの諸島の一部、さらにメラネシアのティコピア島などに遭遇したのち、目的の大陸を発見したと報告しているのであるが、それはニュー・ヘブリデス諸島中のエスピリツ・サント島のことである。キロスの遠征隊から別れたトレスVáez de Torresは西方への探検に向かう途中で、ニューギニアとオーストラリアとの間に横たわるトレス海峡を発見した。なお、スペイン時代にイギリスやフランスの海賊たちはいくつかの島々の発見に貢献している。
さて、オランダの航海者たちは、南アメリカのフエゴ島南端のホーン岬経由で東インドへ到達しようと試みた。1616年ル・メールJacques Le Maireは、生国にちなんで名づけられたホーン岬の周辺を航海し、ついでツアモツ諸島を通って、フィジーとサモアの間のホーン諸島を発見し、さらにニュー・アイルランド島とニューギニアの海岸の縁を通過してアドミラルティ諸島とショーテン諸島を発見した。1642年タスマンは「南方大陸」の実体究明のためオーストラリアの探検を行い、タスマニア島(彼はオーストラリア大陸の一部と勘違いした)、ニュージーランド(彼はこれこそ「南方大陸」の一部であると考えた)を発見、翌1643年にはトンガ、フィジー諸島を発見した。1722年ロッヘフェーンJacob Roggeveen(1659―1729)は復活祭にあたる日に島を発見し、これをイースター島と命名した。さらに彼は北部ツアモツ諸島中の七つの島々や東サモアのマヌア・グループも発見した。
オランダ人のあとに登場するのがイギリスとフランスの探検家たちである。とくにこのなかでもイギリス人ジェームズ・クックは、偉大な探検家の名にふさわしく科学的研究でいくつもの貴重な貢献をした。1769年から1778年にかけ、彼は3回にわたる探検を行い、ニュー・カレドニアやハワイなどの島々を新たに発見するとともに、「南方大陸」説を否定した。1773年の第二次航海からジョン・ハリソンの発明した正確な航海用計器を用い、それまであいまいであった地図を正しく書き改めた。また、科学者や画家を乗船させ、今日では失われてしまったいろいろな貴重な記録を残してくれた。さらに、船乗りのもっとも恐れた壊血病がビタミンCの欠乏からおこることがわかっていたため、予防措置をとり、死を回避することに成功した。
ヨーロッパ人たちによるポリネシアの島々の発見――先住民たちがすでに発見し居住していたので、正確には「接触」と表現すべきであるが――は1835年ようやく完了した。ヨーロッパ人たちがポリネシアの全島を発見するのに、実にマゼラン以降、300年以上の年月を費やしたことになる。
19~20世紀にかけて先住民の意志を無視し、オセアニアの島々は世界の列強の植民地の餌食(えじき)となる。それは既述の「発見」史と深く結び付き、国力の衰えたスペインは除き、イギリスとフランスが激烈な争奪戦を展開し、のちにドイツが登場するまでの間に重要な島々を確保した。イギリスはトンガ、ソロモン、フィジー、ロツーマ、ギルバート、エリスを、フランスはソシエテ、ツアモツ、ガンビエル、オーストラル、マルケサスを獲得し、ニュー・ヘブリデスは共同管理下に置いた。遅れて登場したドイツはオーストラリアの抗議に逆らい、ニューギニアの北部、ビスマーク諸島、そしてさらにスペインからマリアナ、マーシャル、カロリンを買収した。アメリカはハワイ、グアム、サモアの一部を入手した。第一次世界大戦後、日本、オーストラリア、ニュージーランドは旧ドイツ領をそれぞれ分割統治することになる。しかし、第二次世界大戦後、この統治には変更が生じ、たとえば、ミクロネシアの日本委任統治領は国連信託統治領となり、施政権はアメリカに移った。しかし、1960年代末以降、ミクロネシアをはじめ、オセアニア各地で独立する島々が増加した。
[高山 純]
オセアニアの産業は、地域的にも多様である。オーストラリアは、いまや農牧畜国から、近代工業国へと転換し、鉱物資源にも恵まれた広大な国土を有している。ニュージーランドは、第一次産業国家であるが、より付加価値の高い農牧業を目ざしている。またパプア・ニューギニアは、金、銅、石油など豊かな鉱物資源の開発可能性を秘めており、急速にアジア国家との交易関係を強めつつある。ほかの島嶼国家の経済・産業は、さまざまな困難に直面している。前記の3国家は、たとえばAPEC(エーペック)(アジア太平洋経済協力)などを通じてアジア諸国との貿易・通商を拡大することにより経済の発展を企図している。しかしながら、島嶼国家は、いずれも伝統的熱帯産品(ココナッツ、バナナ、タロイモ、キャッサバ、砂糖)を主力産品としているため、東南アジア諸国の産品と競合し、その競争力からして輸出の発展はあまり望めない。1970年代の独立期以降、この地においても、コーヒー、バニラ、カカオ、カボチャなどの新しい産業分野の開発が進められているが、地理的狭小性、消費地帯からの遠隔性、産出物の品質管理などの諸点において、多くの問題点を抱えている。
1970年代以降、漁業は、島嶼国にとって主要な経済発展の鍵(かぎ)をにぎるものとなった。太平洋は、世界的にもカツオ、マグロの重要な漁場であり、自ら漁業活動を行うとともに、入漁料収入も外貨獲得の手段となった。漁業振興に関しては、日本の水産援助(ODA=政府開発援助および民間漁業援助)が大きな役割を果たしているが、20世紀末以降、漁業資源の枯渇が大きな問題となりつつある。
輸出と輸入の不均衡は、島嶼国の最大の問題である。オーストラリア、ニュージーランド、パプア・ニューギニアを除き、オセアニアでは、いずれの国家も貿易収支の巨大な赤字(輸入額が輸出額の10倍近い例もある)に苦しんでいる。島嶼国では、自動車等工業産品にとどまらず、大半の生活用品を輸入しているが、これに見合う輸出力がない。観光収入、経済援助、国外労働による送金などでこの貿易赤字を補填(ほてん)している。島嶼国の経済振興、輸出の増大のために、国連開発計画(UNDP)、経済協力開発機構(OECD)、アジア開発銀行(ADB)などの国際機関による支援のほか、旧植民地宗主国であるヨーロッパ連合(EU)のロメ協定による輸出保証、オーストラリア、ニュージーランドの島嶼国一次産品に対する貿易特恵などさまざまな振興協定が提供されているが、根本的な解決方法はみいだされていない。
この地への先進国からの経済援助は、年間総額約10億ドルに達するが、そのうち、自由連合協定に基づくアメリカのミクロネシア諸国援助、旧信託統治地であるパプア・ニューギニアに対するオーストラリアの援助を除けば、日本は最大の援助供与国である。日本は特定地域、国家に偏しない援助を行っており、国際的にも評価されている。
[高橋康昌]
オセアニアの中でメラネシアは人種的、言語的、文化的にもっとも複雑な様相を呈しているのに対し、ポリネシアはもっとも単一性を示し、ミクロネシアはいわば両者の中間的位置にある。これらの差異は、主として人々の起源の違い、居住の歴史の古さ、島々の地理的、文化的孤立化の度合い、さらには島によって異なる生態的環境への人間・文化的適応の仕方の違い、などによって生じた。とくに、ポリネシアの場合、世界の人類移動史上で最後に居住のなされた所であるということが、ポリネシア人が同質性をもつ大きな要因となっている。
[高山 純]
ポリネシア人の祖先たちは、紀元前4000~前3000年ごろにはすでにフィリピン、インドネシア方面からニューギニア、ビスマーク諸島付近まで渡ってきていたと推定される。そして、彼らは前1300年までにはフィジー諸島、さらにこれより少し後にはポリネシア西端のトンガ、サモア諸島にも到達している。その後、1000年以上ここにとどまって新しい環境への適応を達成して、後世のポリネシア文化の原型をつくりだし、東の大海原に向かって移動を行った。おそらく船体を2隻横に連結させたダブル・カヌーで船出した彼らは、優れた航海術を身につけた人々であったが、新石器時代の文化階梯(かいてい)に属す農耕民であった。現在の考古学的研究は、彼らが最初に到着した所はマルケサス諸島で、それは紀元後300年ごろであることを明らかにしている。その後、ここを基点とし、400年にはイースター島、500年にはハワイ、600年には西へ逆戻りしてソシエテ諸島、今度はここを前進基地として800年にはニュージーランド、1100年ごろクック諸島、1200年ごろツアモツ諸島へと植民がなされた。なお、ハワイ、ニュージーランドの口碑伝承の研究から、比較的新しい時代にもソシエテ諸島からこれら両諸島に移住のあったことが推測される。移住の動機については、人口増加による土地不足によって引き起こされる種族間の闘争による新天地への逃亡、偶然の漂流・漂着による島々の発見、未知の世界への冒険心・好奇心など、いくつもの仮説が提出されている。
18世紀のキャプテン・クック以来、ポリネシア人の起源についての問題はヨーロッパ人の関心をひき、失われた「ムー大陸」説をはじめ、今日まったく否認されているいろいろな仮説が提出された。ポリネシア人の祖先たちが東南アジア方面から渡ってきたことは、ポリネシア語が、マダガスカル、東南アジア、メラネシア、ミクロネシアにみられるオーストロネシア語(マライ・ポリネシア語)族の一分派であることからもうなずける。初期のヨーロッパ人の接したポリネシア文化は、人々が各島への移動を終了したのちに独自に発達させた文化を目撃したものにほかならない。また、かつて説かれた、ポリネシアにはいくつかの異人種の渡来が時代を異にしてなされたという見解を裏づける決定的証拠はなく、むしろヨーロッパ人との接触がなされるまでポリネシア人本来の身体形質にはほとんど変化は生じなかったといわれている。さらにポリネシア人はコーカソイド(白色人種)系株(けいしゅ)に属すという従来の通説に対し、モンゴロイド(黄褐色人種)系株の一系統にすぎないとする意見が有力になりつつある。
ところで、近時、初期のポリネシア文化の原型を探るうえで重要な鍵(かぎ)を握っていると目されているのがラピタ式土器文化である。ニュー・カレドニアのラピタ遺跡の発掘での発見にちなんで命名されたこの土器は、「歯状」の刺突文(しとつもん)で特徴づけられる独得な文様をもち、ビスマーク諸島付近からメラネシアの各地を経て西ポリネシアのトンガ、サモアまで分布している。その他の主要な遺物としては、断面が方角(ほうかく)や平凸やレンズ状をした無段石斧(せきふ)、シャコガイ製斧(おの)、チャートや黒曜石製剥片(はくへん)石器、シャコガイや石製の投弾、貝製の装身具や網のおもり、骨製の入墨用針などが伴出する。ニュー・ブリテン島産の黒曜石が2000キロメートルも離れたサンタ・クルーズ諸島で発見されたことは、ラピタ式土器の担い手たちが、民族学的にメラネシアで知られている儀礼的贈答交易よりずっと広範囲の交易に従事する優れた船乗りであったということを如実に示している。なお、東西両ポリネシアの初期の遺跡から出土する遺物の間には若干の差異が認められる。たとえば、有段石斧と釣り針は東ポリネシアからのみ出土する。これらは東ポリネシア内で独自に発達した可能性が強い。両地域の相違は民族学的にも認められ、石製の杵(きね)や、石ないし木製の人物像は西ポリネシアには皆無である。
さて、初期のポリネシア人たちは、東南アジアやニューギニア起源の根茎作物(タロイモ、ヤムイモ)と樹木作物(ココヤシ、パンノキ、バナナ、サトウキビなど)とイヌ、ブタ、ニワトリと3種類の家畜(ただし、饗宴(きょうえん)のときのみ食される)を携えていた。しかし、島によっては1種類しか伝えられず、ニュージーランドにはイヌ、イースター島にはニワトリしか持ち込まれなかった。ネズミはいわばカヌーの密航者として渡ったといわれているのであるが、ときおり食糧として重要であった。そのほかの重要な植物として、樹皮布(ポリネシア語でタパ)の材料となるカジノキや、フィジーや西ポリネシアそれにミクロネシアのポナペとクサイエにおいて儀式の際不可欠なカバ酒(アルコール性飲料と違って麻酔性で気分を鎮め爽快(そうかい)にする効果がある)の原料となるコショウ科の木などがある。ところで、ポリネシアの栽培作物の起源でつねに論争の的となっているのが、白人到来前よりハワイ、イースター島、ニュージーランド、それにわずかであるがソシエテとマルケサス諸島で栽培されていたサツマイモである。言語学的、植物学的研究はこれが明らかにアンデス起源のものであることを示している。しかし、サツマイモを除けば、南アメリカからの影響をポリネシア文化要素中にみいだすことはできず、これをもって、一部の学者が主張するように、ポリネシア人とその文化の起源を南アメリカに求めることはできない。ポリネシアのサツマイモの起源は謎(なぞ)に包まれているといえよう。ついでに述べるならば、イースター島の石像はペルー起源ではなく、マルケサス諸島の木像から発達したものである。
[高山 純]
メラネシアは、そのギリシア語の語源「黒い(メラス)島々(ネソス)」が示すように皮膚の黒い人々によって居住されている地域である。主として身体形質の相違から、彼らはメラネシア人、パプア人、ネグリトに分類される。「パプアン」という名称がマレー語の「縮れた毛」に由来するように、彼らはオセアニアの他の地域の人々に比べ頭髪の縮れが著しい。黒い皮膚と渦状毛がアフリカのネグロイド(黒色人種)に酷似しているため、久しく「大洋州黒人」(オセアニック・ネグロイド)と一括分類されていたのであるが、現在、これらの特徴は単なる表面上の類似にすぎないとか、種々の根拠から否定される傾向にある。ネグリトもパプア人の祖系株から地方的特殊化の結果生じた形質的な矮小(わいしょう)化現象にすぎないとする説もある。最近の考古学的調査は、ニューギニアとオーストラリアの人間の居住が3、4万年前までさかのぼることを明らかにしているのであるが、多分、彼らは現在のメラネシア人やオーストラリア先住民の祖先で、皮膚の黒いオーストラロイドと想像される。しかし、彼らがいつごろからニューギニアとビスマーク諸島より東のメラネシアの島々に拡散したのかということは明らかでない。少なくともラピタ式土器文化をもったオーストロネシア語の担い手たちがここに現れる前には、すでに彼らはメラネシア各地に居住をしていたと思われる。
[高山 純]
ミクロネシアは人々の居住の歴史が、メラネシアほどではないが、古いため、言語的にも文化的にもポリネシアのような単一性を示さない。ヤップ語とナウル語は帰属不明とする意見もあるので除外するとして、西縁のチャモロ語(マリアナ諸島)とパラオ語は系統的にはフィリピンやインドネシア方面の言語に結び付き、東の核ミクロネシア語(トラック語、ポナペ語、クサイエ語、マーシャル語、ギルバート語)は東メラネシアのバンクス‐ニュー・ヘブリデス諸島地域の言語と親縁関係がある。ヌクオロとカピンガマランギ環礁の言語はポリネシア語である(メラネシアにも、ポリネシア語を話し身体形質もポリネシア人である人々の居住する島々がある。彼らはポリネシアン・アウトライアーとよばれ、ポリネシアから西へ逆戻りした人々である)。
マリアナ諸島には紀元前1500年ごろ、フィリピンから土器を携えた人々の渡来があったし、また同諸島はオセアニアのなかで白人到来前からイネが栽培されていた唯一の地域である。ミクロネシアでは従来、パラオ、ヤップ、マリアナ諸島からしか先史時代の土器の存在は知られていなかったのであるが、最近、チューク(トラック)、ポナペからも発見された。ポリネシアでも先史時代のサモアやマルケサスに土器が存在していたことが考古学的に判明し、土器をつくる粘土がないためポリネシアやミクロネシアの大部分の地域でその製作技術が消滅したとする見解は成立しがたいものとなった。とはいっても土器の製作がどうして中止され、地炉による蒸し焼き料理法が一般的になったのかという理由は明らかでない。液体を入れる容器としてはヤシの殻やヒョウタンが代用されたと思われる。
ミクロネシアとポリネシアの文化の間には共通点もあるが差異もある。ともに漁労が農耕に劣らずしばしば重要な生業となっている。しかし、航洋カヌーについていえば、ミクロネシアでは、風向きの変化に応じすばやく位置の変えられる三角帆が発明されたのに対し、ポリネシアでは積載量はあっても船足の遅いダブル・カヌーしかなかった。メラネシアとともにミクロネシアの西縁諸島には檳榔噛(びんろうか)みの風習があるが、ポリネシアにはない。ミクロネシアのカロリン諸島には、メラネシアの一部とともに、織機(織布の材料はバナナやハイビスカスの繊維)があるが、ポリネシアには見当たらない。社会組織や宗教についてもミクロネシアとポリネシアの間にはかなり著しい差異が認められる。
[高山 純]
日本とオセアニアの関係は、江戸末期の漁民の海難による太平洋漂流に始まる。したがって、それは散発的でかつミクロネシア地域に限定される。明治維新以後、政府はハワイ、ニュー・カレドニア、フィジーへ移民労働者を送り出したが、いまなおその痕跡(こんせき)をとどめるのはハワイのみである。貿易商人の太平洋進出もわずかではあるが認められるにせよ、日本の本格的な太平洋進出は、第一次世界大戦以後の国際連盟による、ミクロネシア(通称南洋群島)委任統治の開始(1920)以後であった。日本政府は、パラオに南洋庁本庁を置き、内南洋(東南アジアを外南洋とよんだ)の日本化に着手した。日本人の入植も急速に進行し、盛時には現地住民数を超える入植を実現した。同時に、この地の特産物である熱帯農産品(砂糖、コショウ、果実)および水産物(魚、貝類、かつお節)の日本輸出により、殖産につとめた。国際連盟離脱(1933)とともに、この地を日本領とし、住民の皇民化政策を推進したが、1945年の敗戦とともに、統治終了となった。同時に、ミクロネシアから赤道以南、ニュージーランド、オーストラリアへと商圏を広げた日本の貿易商社もこの地から完全撤退することとなった。
中部太平洋のミクロネシアからメラネシアは、太平洋戦争当時、激戦の地となり、日本軍の玉砕に終わったギルバート諸島、マリアナ諸島、西カロリン諸島、あるいは惨敗を経験したパプア・ニューギニア、ソロモン諸島など、いまなおその戦跡をとどめている国が多い。オーストラリアのシドニーには、ボタニー湾へ潜行した日本海軍潜水艦の記録が博物館に展示されている。しかしながら、一方では第一次世界大戦に際し、日本海軍の軍艦伊吹がニュージーランド兵を地中海へと輸送した記録もまた友好の証として、ニュージーランドのウェリントン海事博物館に展示されている。このように、第二次世界大戦以前の日本とオセアニアの関係は、光と影の交錯するものであった。
第二次世界大戦後、日本とオセアニアの関係は、オーストラリア、ニュージーランドを除き、長く閉ざされたままであった。オセアニアの独立期である1960年代末以降、徐々に関係修復が開始され、同時に日本の水産業のオセアニア進出も本格化した。このような経緯から、第二次世界大戦後の日本とオセアニアの関係は、いずれかといえば、漁業を中心とする経済協力という形から始まったという側面が強い。島嶼国においては、いずこも漁船・漁具および日本人漁業指導者が日本から送られ、これに伴い漁港の整備、漁獲物の冷凍・冷蔵庫、運搬船、魚缶詰工場、さらには漁船員訓練学校が、日本の水産無償援助(ODA=政府開発援助)で各所に設けられた。つまり、水産業に関するすべてのシステムが日本の経済援助によって整備されている。ODAにとどまらず、民間水産業界の支援も見落とせない。パプア・ニューギニア、ソロモン諸島、バヌアツ、フィジーには、日本企業がこの地の水産物による外貨獲得に大きな貢献を果たした。現在それらの多くは現地化され、それぞれの国において重要な産業となり、外貨獲得、雇用の増大に寄与している。
オセアニアの経済発展は、カリブ、アフリカ、アジアなどの地域に比して、非常に困難な面が多い。なぜなら、土地面積の狭小性、先進地域からの地理的遠隔性、生産物のモノカルチュア(単一)性などにより、国際競争力に欠けるからである。こうした不利をカバーするため、日本は各分野にわたる技術協力を推進し、その内容は生産の拡大、品種改良など多岐にわたっている。1980年代以降、オセアニアにおいては、すべての経済社会発展の基礎は人的資源の育成にあることが強く意識され、これに対応して、日本の協力もまた教育、環境、文化をはじめ、ライフライン整備などの人道援助(BHN)に力点が置かれつつある。
日本は太平洋諸島フォーラム(PIF)のオブザーバー国であって正式メンバーではないが、1997年以降、太平洋・島サミットJapan-South Pacific Forum Summit Meetingを組織し、太平洋地域の環境、技術進展など、直面する問題解決に寄与している。2003年(平成15)5月には、沖縄において第3回同会議が開催された。このほかにも、太平洋の学術知識、技術の向上を目的として太平洋の諸大学首脳を招請し、環境問題、農漁業、情報技術、感染症対策などの共同研究を支援している。また本件を恒常化するため、沖縄の琉球(りゅうきゅう)大学に太平洋学術交流センターが設置された。
[高橋康昌]
『カンバーランド著、石田寛・浅黄谷剛寛訳『南西太平洋』(1972・朝倉書店)』▽『木内信藏編『世界地理11 オセアニア』(1977・朝倉書店)』▽『石川栄吉編『世界地誌ゼミナールⅧ オセアニア』(1977・大明堂)』▽『田辺裕監修、谷内達訳『図説大百科 世界の地理23 オセアニア・南極』(1997・朝倉書店)』▽『リチャード・ナイル、クリスチャン・クラーク著、渡邉昭夫監修・訳、小林泉・東裕・福嶋輝彦訳『図説 世界文化地理大百科 オセアニア』(2000・朝倉書店)』▽『田辺裕総監修、桜井由躬雄・佐藤哲夫・谷内達・村田雄二郎・山岸智子監修『世界地理大百科事典5 アジア・オセアニア2』(2002・朝倉書店)』▽『石川栄吉著『原始共同体――民族学的研究』(1970・日本評論社)』▽『石川栄吉著『南太平洋の民族学』(1978・角川書店)』▽『石川栄吉著『南太平洋――民族学的研究』(1979・角川書店)』▽『高山純著『ミクロネシアの先史文化』(1983・海鳴社)』▽『高橋康昌・井上尹・小林泉・大沼久夫編『オセアニア現代事典』(1987・新国民社)』▽『石川栄吉編『民族の世界史14 オセアニア世界の伝統と変貌』(1987・山川出版社)』▽『ピーター・ベルウッド著、植木武・服部研二訳『太平洋――東南アジアとオセアニアの人類史』(1989・法政大学出版局)』▽『高山純・石川栄吉・高橋康昌著『地域からの世界史17 オセアニア』(1992・朝日新聞社)』▽『大塚柳太郎・片山一道・印東道子編『オセアニア1~3』全3冊(1993・東京大学出版会)』▽『ロズリン・ポイニャント著、豊田由貴夫訳『オセアニア神話』(1993・青土社)』▽『今野敏彦・藤崎康夫編著『移民史2 アジア・オセアニア編』増補版(1996・新泉社)』▽『春日直樹編『オセアニア・オリエンタリズム』(1999・世界思想社)』▽『石川栄吉・越智道雄・小林泉・百々佑利子監修『オセアニアを知る事典』新訂増補版(2000・平凡社)』▽『山本真鳥編『新版 世界各国史27 オセアニア史』(2000・山川出版社)』▽『黒柳米司・関根政美・広瀬崇子著『東南・南アジア/オセアニア――ニュースを現代史から理解する』(2001・自由国民社)』▽『橋本征治著『海を渡ったタロイモ――オセアニア・南西諸島の農耕文化論』(2002・関西大学出版部)』▽『河合利光編著『オセアニアの現在――持続と変容の民族誌』(2002・人文書院)』▽『春日直樹編『オセアニア・ポストコロニアル』(2002・国際書院)』▽『印東道子著『オセアニア――暮らしの考古学』(2002・朝日新聞社)』
アジア大陸と南・北アメリカ大陸の属島を除いた,太平洋諸島とオーストラリア大陸(属島を含む)とを合わせた範囲をオセアニア(大洋州)と呼ぶ。太平洋の大半を含むのでその範囲は広大であるが,陸地総面積は900万km2にたりず,しかもその86%をオーストラリア大陸だけで占めている。これに島々のうちで抜群に大きなニューギニアとニュージーランドとを加えると98%となる。残りの数千を数える島々の総面積はわずか18万km2にすぎない。
大陸を除いたオセアニアの島々の世界は,通常地理学的および人類学的観点からメラネシア,ポリネシア,ミクロネシアの3地域に区分される。メラネシア(ギリシア語で〈黒い島々〉の意。住民の皮膚の色が黒いことによる)は赤道以南のほぼ180°の経線以西の島々をさし,ニューギニアから南東方向に伸びるビズマーク,ソロモン,サンタ・クルーズ,ニューヘブリデス(バヌアツ),ローヤルティ,ニューカレドニア,フィジーなどの諸島を含む。ポリネシア(同じく〈多数の島々〉の意)は,ほぼ180°の経線以東の,北はハワイ,南西はニュージーランド,南東はイースター島を三つの頂点として描かれる,1辺およそ8000kmの巨大な三角形(ポリネシアン・トライアングルと呼びならわされている)に含まれる島々をさす。上記の3頂点に当たるもののほか,サモア,トンガ,ウォリス,エリス(ツバル),フェニックス,トケラウ,クック,ライン,ソシエテ,トゥブアイ(オーストラル),トゥアモトゥ,ガンビエ(マンガレバ),マルキーズ(マルケサス)の諸島がある。ミクロネシア(〈小さな島々〉の意)はほぼ赤道をはさんでメラネシアの北側にあたり,マリアナ,カロリン,マーシャル,ギルバート(キリバス)の諸島を含む。
現在のオセアニアの自然環境は,乾燥した大陸と湿潤な島々という二つのタイプに大別することができる。オーストラリア大陸は〈乾燥大陸〉の名にふさわしく,年降水量500mm以下で草原や砂漠となっている土地が,大陸全体の約2/3を占めている。降水はほぼ同心円形の分布を示し,内陸中央の砂漠から外側へ向かって漸増する。650mm以上の年降水量をもつのは,北部のアーネムランドとヨーク岬半島,南西オーストラリアおよび東部地方だけである。降水量に応じて独特の植生の型が形成され,比較的降水の多い東部にユーカリ樹林,西部には広葉樹林,そして高温多雨の北部には熱帯雨林がみられる。これらの植生は内陸に向かうにつれてしだいに姿を消し,サバンナからステップを経て砂漠に変わっていく。地形は概して低平であるが,大陸の約3/5の面積を占める西部の台地,標高150m以下の内陸の沈降盆地,および東部高地と海岸平野の3地形区に分けられる。
オセアニアの島々は,地質学的にいわゆる陸島と洋島とに分けられる。太平洋の西縁に近いミクロネシアのマリアナ諸島とメラネシアの大半の島々およびポリネシアのニュージーランドは陸島で,第三紀末の環太平洋造山帯の活動によって形成されたものである。概して島が大きく,地質,地形ともに複雑で,埋蔵地下資源の種類も多い。これに対して,大陸から遠くへだたったミクロネシアの大部分と,ニュージーランドを除くポリネシアの島々は洋島である。洋島は火山島,環礁および隆起サンゴ礁に分けられる。
火山島は深海底から溶岩として押し出された玄武岩質の島である。ハワイのマウナ・ケア山のように標高4206mにも達するものもあるが,一般に2000mを超えるものはまれである。しかし,高度に比して島の面積が小さいため,地形は急峻で平地に乏しい。ただし,次に述べる環礁と異なって水は豊富であり,とくに風化の進んだ古い火山島では玄武岩質の肥沃な土壌に恵まれて,植物の繁茂がきわめて旺盛である。ポリネシアのサモア,南部クック,ソシエテ,トゥブアイ,マルキーズ,ハワイなどの諸島は,ほとんどすべてこのような火山島からできている。
環礁は中央にラグーン(礁湖)をいだく低平な円環状のサンゴ礁の島で,標高5mを超えることはまれである。サンゴ質のため水と土壌に乏しく,したがって植生も貧困である。しかし,サンゴ礁に囲まれたラグーンは波静かな漁場をなすばかりでなく,船舶にとって絶好の泊地や避難所を提供し,このため,カロリン諸島のトラック諸島がかつての日本海軍の基地とされたような例もある。ラグーンは直径1kmほどの小さなものから,世界最大といわれるマーシャル諸島のクワジャリン島のそれのように琵琶湖の2倍半のものまである。このような環礁は,ミクロネシアのマーシャル,ギルバートの両諸島と,ポリネシアのエリス,フェニックス,トケラウ,ライン,北部クック,およびトゥアモトゥの諸島に発達が著しい。
隆起サンゴ礁は環礁が十数mから数十m隆起したものである。単調ではあるが険しい断崖の海岸線をめぐらし,島の中央部にかつてのラグーンが凹地となって名ごりをとどめることが多い。この凹地に海鳥の糞が長年月の間にいわゆるグアノ・リン鉱石として厚く堆積していることもある。ミクロネシアのナウル島やオーシャン島がそうしたリン鉱石を産する隆起サンゴ礁である。
オセアニアの島々は,温帯に属するニュージーランドとイースター島とを除いて熱帯に属し,年間を通じて高温(年平均21~27℃)である。ここはまた貿易風帯でもあり,南半球では南東貿易風,北半球では北東貿易風がそれぞれ卓越風となって雨をもたらす。降水量は火山島の場合には風上側に多い。東太平洋では赤道に沿って寡雨帯が走り,ポリネシアのマルキーズ諸島がこれに入る。低平な環礁も熱帯低気圧に見舞われないかぎり雨が少なく,年降水量300mm以下ということもまれでない。赤道付近の西太平洋に発生する熱帯低気圧は,北半球では北西に,南半球では南東に向かって進み,進路上の島々に多量の雨をもたらすばかりか,しばしば甚大な損害を与える。一般に高温多雨であるため,植物の生育が旺盛で,熱帯性の自然林がよく茂り,とくにニューギニアをはじめとするメラネシアの島々では濃密な熱帯雨林が大地を広くおおい,また海岸をマングローブ林が縁どることも多い。ただし,さきにも述べたように,土壌と水の乏しい環礁の場合には植生が貧困である。
執筆者:石川 栄吉
地質構造区分からオセアニアを分けると,(1)オーストラリアを中心とした大陸域,(2)ニューギニア,ニューカレドニア,ニュージーランド等を含む列島域,(3)広く大洋中に散在するサンゴ島,火山島,ギヨーなど各群島・諸島からなる洋島域の三つに大別される。この3区分はそれぞれ地史的な背景をもつ。
(1)オーストラリアとその東岸の大堡礁(グレート・バリア・リーフ)や北側のアラフラ海域を含めた広いサフール陸棚地域などは,古い先カンブリア時代の楯状地を境にし,主として先カンブリア時代~古生代の地殻変動を通じて成長してきた地域である。中生代終りごろにこの陸塊はゴンドワナ大陸から分離したあと,海洋底の拡大等の運動に伴って現在のような形や構造をとることになった。現生の動植物相は,このような履歴を反映させて,その他の大陸とはきわだって異なった特徴がある。例えばユーカリの大繁栄,真獣類の不在(後に人類がもちこんだものは除く)とそれを補う形での有袋類の著しい分化と発展,シンサンカクガイの残存,といった証左が挙げられる。楯状地の古期岩層中には,しばしば大規模の鉄鉱床を胚胎し,世界でも有数の鉄資源産地となっている。
(2)列島型の島々とその周辺の小島群は,古生代から中生代にかけての造山運動により,日本列島とほぼ似た発達史をたどっている。三畳紀の二枚貝やその後のアンモナイト類などの化石も発見されているし,蛇紋岩など超塩基性岩類の分布も広い。ニューカレドニアのニッケル鉱床は,このような岩石の一部をなすものであり,日本へも多く輸出されている。ニューギニア,ニューカレドニア両島はともに現生生物相はオーストラリアのそれに近く,飛べない鳥のカグーや,カンガルーをはじめとする有袋類,ダチョウの仲間,ユーカリ類等によって特徴づけられている。
(3)洋島のほとんどは,形成が白亜紀以降という新しさのため,オーストラリア型の生物相からはむしろ独立的であり,海流の影響を強くうけて分布するサンゴ類をはじめとする海洋生物を除くと地域性が著しい。洋島の基本型はギヨー型の海底火山であり,とりわけサンゴ礁のよく発達している島々は,ダーウィン・ライズと呼ばれる広い海底の盛上り部分に集中していて,中生代後期から新生代にかけて起こったグローバルな地殻変動の一つのタイプとみられる。これらの洋島の生物相の特徴としては,島ごとの変異が大きいことや外敵が少ないために飛べない鳥の多いことがあげられる。
オセアニア近辺の海流系は,基本的には赤道に沿う西方流とその反流,ならびに陸塊に阻止されて反転する北上流(黒潮)や南下流(東オーストラリア沿岸流)からなっていて,海洋生物分布を大きく規制している。サフール陸棚やジャワ海は現在の水深がほぼ200mより浅く,第四紀の海面低下期には陸化していたと考えられる。また,オセアニアの列島型島や洋島群の近くにはトンガ海溝をはじめいくつかの海溝系が存在し,大洋底地殻の移動と関連して著しい高低差をもつ地形を構成している。オセアニア全般の海底の形成史は東や北太平洋のそれに比べて複雑であり,地球科学的解析がややおくれている。
オセアニアの地下資源は,多くが海洋島であるため全体的に乏しい。しかし,ニューカレドニアのように,超塩基性岩類が広く露出しているところでは,ニッケル鉱を多量に産出する。グアノ型の堆積性リン鉱石はサンゴ礁型の小島にみられるが,産出量は減少してきている。海洋資源,とりわけ沿岸生物資源には恵まれているが,漁法や組織が不十分であるため,公海資源の方がより多く利用されている。
執筆者:浜田 隆士
オセアニアの存在がヨーロッパ人の知見に入るのは16世紀以降のことであるが,そのはるか以前からオセアニアの大陸と島々には人が住みついていた。彼らの来歴,とくに東のアメリカ,西のアジア両大陸から隔絶したポリネシアの諸島民の起源については,彼らが〈発見〉されてこのかた多くの論議を呼んできた。失われた大陸の生残りの子孫であるとする説,南アメリカ大陸から渡来したとする説など,さまざまの仮説が出されてきたが,今日ではポリネシア人を含めてオセアニアの土着の人々の祖先が,すべて東南アジアから移動してきたことが明らかにされている。ただし,その移動の時期は地域によってかなり異なる。
(1)アボリジニーAborigine オーストラリアの先住民であるアボリジニーは洪積世末の第4氷期(ウルム氷期)に東南アジアからこの大陸へ移動してきたものである。当時は海退期にあたり,海面が現在よりも100m以上低下してオーストラリア,ニューギニア,タスマニアは陸続きとなり,また,インドネシアのジャワ,スマトラ,ボルネオもアジア大陸と地続きになっていた。以後,およそ1万5000年前に再び海面が上昇を始めるまでの間に,アボリジニーの祖先が渡来したものと考えられる。これまでにオーストラリアで出土した最古の化石人骨は,ニュー・サウス・ウェールズ州西部のマンゴ湖近傍から出土した女性人骨で,炭素14法による年代測定の結果,およそ2万6000年前のものとされている。アボリジニーは概して中等度の身長,波状毛,突出した眉上弓,くぼんだ目,広鼻,厚い唇,長頭,赤褐色ないしチョコレート色の皮膚,多毛性などを身体形質上の特徴とする。タスマニア人もその同類である。アボリジニーは言語的に約300,方言も数えると約600グループに分かれていたが,それらの諸語が元来一つの共通祖語から出たものであることはほぼ疑いない。しかし,パプア,メラネシア,東南アジアなど,周縁地域の諸言語との間にはこれまでのところ親縁関係が立証されていない。ヨーロッパ人の入植(1788)以前のアボリジニーは,旧石器時代さながらの採集・狩猟民であった。彼らは平均30人ほどの小集団ごとに,伝統的に定まった広大な領域内を食糧を求めて放浪の生活を送っていた。物質生活は貧困であったが,二重単系出自に基づく複雑な社会組織をつくり,トーテミズムとして知られる宗教観念を発達させていた。
(2)パプア人とメラネシア人 メラネシアの住民は一般に黒色の皮膚と渦状毛もしくは縮毛を特徴とするところから,従来アフリカ黒人と同類のニグロイド人種に分類されがちであったが,遺伝学的研究ではこの説は否定され,オーストラリアのアボリジニーと同じオーストラリア先住民に近いとする見解もある。ただし,小地域ごとに割拠して長年月の孤立を続けたことと,後来のモンゴロイド人種との混血の程度とによって,現在の身体特徴にはかなりの地域差が認められる。概してニューギニア内陸部住民が暗褐色の皮膚,渦状毛,鉤鼻,多毛であるのに対して,他のメラネシアの島々の住民は,黒色皮膚,縮毛,広鼻で体毛も少ない。身長は一般に中等度であるが,ニューギニア高地の一部には男子の平均身長150cm以下の低身グループもみられる。言葉はパプア諸語という名前で総称される700から800の雑多な諸言語で,現在はニューギニアの大部分とビズマーク諸島およびソロモン諸島の一部とに用いられている。それら諸語の系統関係は必ずしも明らかでないが,おそらく非常に古い時代には互いに系統関係をもつばかりか,オーストラリア諸語とも親縁関係にあったのではないかと思われる。その他のメラネシアの島々の言語は,アウストロネシア語族に属する諸言語である。このアウストロネシア諸語をもたらした人々は,人種的にはモンゴロイドであった。彼らは前4000年前後ころにインドネシアからメラネシアに入り,およそ前2000年ころまでにメラネシアの南端にまで達した。この間およびその後に先住民とさまざまの程度に混血し,現在みるメラネシア人の形質をつくりあげた。パプア人とメラネシア人はタロ,ヤムなどのイモ類とバナナ,パンノキ,ココヤシ,サゴヤシなどの樹木作物を栽培する原始農耕民であった。この状態は現在でもあまり変わっていない。農耕技術はもちろん東南アジアからもたらされたものであるが,穀物と金属器は伝わらなかった。彼らは村をつくって定住生活を営んだが,その規模は小さく,村を超える政治社会はほとんど形成されることがなかった。原始的平等が支配的で,一部の地域を除いては身分も階級も未分化であった。親族関係を規定する出自原理は父系もしくは母系であることが多く,祖先崇拝とこれに関連するさまざまの儀礼が行われていた。生物・無生物を問わず万物に宿る超自然力〈マナ〉の観念が発達し,その獲得を目的として首狩りや食人が行われることもあった。マナの観念はメラネシアにかぎらず,ポリネシア,ミクロネシアにも広く認められる太平洋諸島民の基本的宗教観念である。
(3)ポリネシア人 ポリネシア人は褐色の皮膚に黒色の波状毛をそなえ,高身でかつ肥満型への傾向を示し,眼瞼にはときとして軽微な蒙古皺襞があらわれる。モンゴロイド人種に属し,ポリネシア人の祖先はメラネシアを経由して渡来したといわれる。彼らがメラネシア南東端のフィジー諸島からポリネシア西部のトンガ諸島とサモア諸島とに植民した時期は,前1300年ころであった。その後,ここから後300年までに東部ポリネシアのマルキーズ諸島に移り,さらにここを基点としてイースター島に4世紀ころ,ハワイに7世紀ころに植民が行われた。マルキーズとほぼ同じ頃に植民されたと思われるソシエテ諸島からは,10世紀ころにニュージーランドへ,そして13,14世紀にはハワイへも移動がなされた。このようにしてポリネシアの島々は,ヨーロッパ人がそこに姿をあらわすまでに,ほとんどもれなく人の住むところとなっていたのである。ポリネシア人の言語はメラネシア諸語と同じくアウストロネシア語族に属し,生業形態も基本的にメラネシア人のそれと異ならないが,社会組織は身分階層制が発達し,一部に首長国の形成もみられた。出自は父系に傾いた選系である。マナと並んでタブーの観念が発達し,これが身分制の一つの支柱をなしていた。身分制はまた,神話によっても合理化されていた。
(4)ミクロネシア人 ミクロネシア人はモンゴロイド人種に属し,東部ほどポリネシア人に近く,西部ほどフィリピンもしくはインドネシア人に近い。中・東部カロリン諸島とマーシャル諸島およびギルバート諸島は,核ミクロネシアの名で総称され,これら諸島の言語はメラネシア諸語およびポリネシア諸語とともにアウストロネシア語族の東部群を構成する。核ミクロネシアは前1300年前後にメラネシアのニューヘブリデス諸島の北部から植民された。この人々は同じ頃にメラネシアを経てポリネシアに流入した人々と,おそらくは同系であったと思われる。これに対して,マリアナ諸島とカロリン諸島西部のパラオ諸島とを含む西部ミクロネシアの言語は,インドネシア語などと同じくアウストロネシア語族の西部群に属する。西部ミクロネシアは前2000年ころにフィリピン方面から植民された。ミクロネシアの文化は総じてポリネシアに近いが,出自はポリネシアと異なって母系をたどることが多い。
執筆者:石川 栄吉
オセアニアにおける考古学の歴史は比較的浅く,オーストラリア,ニュージーランドを除いてはおもに地上に残存する石造遺跡の調査を主体とするものであった。本格的な発掘による考古学調査は第2次大戦以後のことであるが,特にオーストラリア国立大学によるメラネシアの調査,ホノルルのビショップ博物館によるポリネシアの調査は大きな成果をあげている。ミクロネシアでは,マリアナ諸島で戦後早くから日本やアメリカの考古学者の調査が始まったが,中央および東部ミクロネシアの発掘調査はだいぶ遅れ,東海大学,ビショップ博物館,アメリカ本土の学者らによって1970年代になって活発となった。オセアニアの先史文化はようやく解明の糸口が開けたというところで,現在も調査が進められている。
洪積世の氷河の形成とともに海退が始まって,海水面は現在よりも100~150mも低くなり,ニューギニア,オーストラリア,タスマニアは陸続きとなった。同時にジャワ,ボルネオなど東南アジアの島々の一部もアジア大陸と陸続きとなったが,ニューギニアおよびオーストラリアと東南アジアとの間には海域が残り,動植物の東方への移動をはばんだことは,ウォーレス線が存在することで知られている。人間がこの海域を渡る技術をもつまでには長年月を要し,東南アジアからニューギニアやオーストラリアに達することができたのは約3万~4万年前であった。洪積世後期にさかのぼる遺跡は,オーストラリアの北部から南部にかけて発見されているが,3万2000年の古さをもつニュー・サウス・ウェールズ州のマンゴ湖遺跡は礫核とスクレーパーを主体とする石器文化をもっていた。
ニューギニアの高地からは洪積世後期の遺跡がいくつか発見されているが,沿岸地域からの発見はなく,これは後代の解氷期の海進によって当時の沿岸は海面下に沈んでしまったのが原因と思われる。パプア地区の高地にあるコシペ遺跡は2万7000年をさかのぼる年代を示し,粗製の打製分銅形剝片石器が下層から,局部磨製石斧が上層から出土している。ニューギニアでは6000~1万1000年前ころには根菜農業が始まったが,東南アジア原産と考えられる豚の骨の発見も報告されている。ニューギニアとオーストラリアは6500~8000年前ころには海進により現在みるように海で隔てられて,それぞれ特徴的な歴史・文化をもつことになる。現在のアボリジニーとニューギニアおよびソロモン諸島,ビズマーク諸島の一部に分布する複雑多種のパプア人とは,それぞれ洪積世後期の文化を基に分化したものであろうといわれている。
4000~6000年前ころ,アジア大陸沿岸の島々からアウストロネシア語を話す,磨製の石手斧(ちような),石のみ,釣針,それに土器,根菜農業の知識をもった海洋民族が続々とニューギニア沿岸,ビズマーク諸島,ソロモン諸島方面に浸透しはじめた。そして前1000年ころには遠くメラネシアのフィジー,さらにはポリネシアのトンガ,サモア諸島にまで達した。彼らはラピタ式土器文化をもち,海上交易を行っていた。フィジーにおいてはラピタ式土器以後,沈線文と敲打文(こうだもん)をもつ二つの土器文化が続くが,その影響はトンガやサモアには及ばず,この両諸島のラピタ系土器文化は後300年ころには消滅している。前500年から後300年ころにかけて,いわゆるポリネシア文化の基礎が形成されたものと考えられ,昔から唱えられていたインドネシアをポリネシア文化の起源とする説は書きかえなければならない。後300年前後には,西ポリネシア(サモア,トンガ)から東ポリネシアのマルキーズ諸島への移住を行ったが,土器の製作技術を失ったこれらの人々が,その後マルキーズおよび他の東ポリネシアで土器を製作した形跡はみられない。
一方,ミクロネシアにおいては,マリアナ諸島(グアム島を含む)で前1500年ころに文化の発祥が認められる。前ラッテ期と後ラッテ期の二つの文化期があるが,ラッテとは椀状の頭部をもつサンゴ柱で,通常数個ずつ2列に並んで発見され,おそらく家屋の床の支柱であったと思われる。前ラッテ期には,ラッテはなく,東南アジア,フィリピンと関係があると思われる沈線文を石灰で埋めた文様をもつ土器や赤色土器が出土し,石や貝製の手斧,貝製の釣針,装身具などを伴う。後850年ころから始まる後ラッテ期には無文土器文化が伴う。西カロリンのヤップ島やパラオ諸島からは有文の前ラッテ期の土器は発見されていない。最近の調査で,ミクロネシアの土器文化の分布の東限がポナペ島まで達していることがわかり,トラック諸島では無文土器を主体とする紀元前後までさかのぼる遺跡も発見されている。ポナペやトラックの土器とマリアナの土器との関係は明らかになっていないが,現在進行中の中央・東ミクロネシアの調査の成果が期待される。
執筆者:篠遠 喜彦
中世のキリスト教世界,いまの西ヨーロッパは,肉食習慣の社会であり,その臭みを消したりする香辛料としてチョウジなどをアラブ・イスラム世界との交易で入手していた。それがオスマン帝国の興隆で,アジア地域の産地との交通路を断たれた。西欧世界の覇権を握っていたポルトガルは,独自で交易路を探し,1499年喜望峰回りでインド航路を発見した。1509年にはスマトラとモルッカに到達して,チョウジを手に入れた。太平洋地域が世界史に登場するのは16世紀からだが,ポルトガルやスペインの植民地探しの一端であり,当時の航海術の未熟さもあって,島々の発見は偶発的であり,必ずしも領有にはつながらなかった。たとえば,最大の島ニューギニアはポルトガル人によって1526年に発見されたが,名付け親はスペイン人であり,その後オランダ,ドイツ,イギリスが19世紀まで領有や統治を試みる,といった経緯をたどる。ミクロネシアのマーシャル諸島は発見が1520年代ときわめて早いが,2世紀ほどの間忘れ去られてしまう。
単なる通商路の発見や特産物探しの時代に終止符を打ったのは,クック(1769-79年に3回の大航海)に代表されるイギリスの進出であり,フランスではラ・ペルーズ(1785-88年の航海)が糸口をつくった。そして1788年,オーストラリアのポート・ジャクソン(シドニー)に植民地を開いたイギリスが,オセアニア地域の主導権を握ることになった。ロシアも1820年,ポリネシアのトゥアモトゥ諸島にまで調査船を送ったが,領有の意図はなかった。ドイツは56年,サモアに足場をつくり,アメリカと競った。イギリスは77年,フィジーに西太平洋高等弁務官を置き,太平洋植民地経営の拠点にした。19世紀末まで,島々は冒険商人の活動の場となり,香辛料に代わって,中華料理用のナマコ,彫刻用の白檀や黒檀の木材が取引の対象となり,鉄砲と酒類が持ち込まれた。また捕鯨船の基地になり,オーストラリア植民地を中心に,サトウキビ農場の農奴としてソロモン,ニューカレドニアなどの島民を拉致(らち)する奴隷貿易(ブラックバーディングblackbirding)もあった。ニューギニアの金鉱山,ギルバート諸島,ナウル島のリン鉱石,ニューカレドニアのニッケル鉱山といった資源が豊かな島は例外的であり,フィジーの砂糖を除いては,油脂用のコプラ(ココヤシの実からとる)が主産物で,欧米諸国にとって魅力ある植民地とはいえなかった。この間,ロンドン伝道協会を先頭にキリスト教化が進められ,自然崇拝や多神教的な原始宗教は排除されて,島々は教会を中心にした社会構造に変わっていく。伝統文化も失われ,一方では土俗信仰とキリスト教の救世主思想が結びついたカーゴ・カルトがメラネシア地域に発生した。
島々では,酋長や豪族が欧米勢力に対抗したが,タヒチのポマレ王朝,ハワイのカメハメハ王朝,トンガ王国を除いては強力な政体がなく,西欧列強の支配下に入り,これら三つの島国王朝も,19世紀末までに倒れるか,列強の保護を受けるようになって,自主性を失った。
第1次世界大戦前にドイツはミクロネシアの島々,ナウル,西サモア(現,サモア),ニューギニアの島嶼部で植民地を築き,イギリス,フランス,アメリカと並存したが,大戦後は,イギリス,オーストラリア,ニュージーランドがドイツ敗退の空白を埋めた。ミクロネシアでは,日本が国際連盟による委任統治(南洋委任統治領)を開始,南下政策をとるようになった。第2次大戦で太平洋の島々は初めて本格的な戦場となった。日本軍は,アメリカとオーストラリア,ニュージーランド間の海上交通路を断とうと,ソロモン,ニューギニアの島嶼部まで進出した。イギリス連邦軍にはサモア,フィジー兵が参加,フランス領ニューカレドニアもド・ゴール支持派としてアメリカ軍を支援した。太平洋での戦闘を通じてアメリカの影響力は強まり,戦後はアメリカ領サモア以外にもアメリカの潜在的な支配力は強まった。
1960年代後半,イギリス勢力がアジア太平洋地域から後退し,オーストラリア,ニュージーランドが地域中級国家として力をつけるなかで,宗主国側から主権を引き渡す形で,島々の独立が平和的に進んでいった。62年西サモア,68年ナウル共和国,70年トンガ王国,フィジー,75年パプア・ニューギニア,78年ソロモン諸島,ツバル,79年キリバス共和国,80年バヌアツ共和国,86年マーシャル諸島共和国,ミクロネシア連邦,94年パラオ共和国(ベラウ)の12ヵ国が誕生した。フランス領ニューカレドニア,フランス領ポリネシアはフランスの海外領土として準自治政府があるが,メラネシア人,ポリネシア人の間には独立志向が強くなり,新興島嶼国家からも対仏批判が激しくなっている。フィジー,パプア・ニューギニアは,中進国あるいは資源国として,地域のリーダー国の位置を占め,太平洋ブロックとして,国際政治上の発言力を持とうとしている。オーストラリア,ニュージーランドも加盟している南太平洋フォーラムは,漁業専管水域200カイリ問題や,フランスの核実験反対で共同行動をとっている。しかし財政が豊かでなく人材不足のため,キリバス,ツバル,トンガの3ヵ国は国連に加盟していない。
→太平洋
執筆者:青木 公
オセアニア地域の人種・民族移動は数千年以前に始まり,いくつかの移動の波がみられる。移動が比較的新しく外部との接触が少なかったポリネシアは他の地域にくらべ文化的に均質であるが,ポリネシア以外の地域では島および群島が長時間にわたり孤立したことで,各地域はそれぞれ独自の異なった文化スタイルを発達させ,社会構造,文化,神話のテーマなどの変化はささいなものでなく,一つの島の中でも同じ神話や伝説の変異形がある。オセアニア神話は文化系統や独自の発展による相違から多様だが,祖先に共通な要素を持つ神話も見いだせる。
(1)ミクロネシアとポリネシア 東部ミクロネシアやポリネシアには創造神による天地創造の話があり,ナウルでは原初の存在は空気と海とアレオプ・エナプという老齢のクモであった。ある日のことアレオプ・エナプは大シャコ貝をみつけ,このシャコ貝から天と地を創造する。また,ギルバート諸島ではナレアウ神が天と地の分離を用意し,ウナギによって天が持ちあげられる。中部ポリネシアではタンガロア神により天地がつくられる。ニュージーランドのマオリ族では,天と地はランギとパパと呼ばれる生き物であると考えられている。ランギとパパはしっかりと抱きあっていたため,その子どもたちは2人の間の暗くて狭い空間を自由に移動することも,見ることもできなかった。風と嵐の神であるタウィリ・マテアを除く子どもたちは両親を分離させることに賛成し,森の神タネ神が天地分離を成就する。このランギとパパは天地創造の開始点であり,その子どもたちから動物,植物,自然物質,人間にいたる創造があり,話の進行は系譜に沿って語られる。海中から島を釣り上げるマウイ神話は太平洋地域に広く分布し,西カロリン諸島ではモチクチクが土地を釣り上げる。ポリネシアではこのマウイ神話は,天を持ち上げる,太陽に綱をつけ動きをゆっくりさせる,最初の犬をつくる,人間に死をもたらす,など数多くのテーマをもつ。このマウイ神話は階層制社会であるポリネシアでは首長層に属する神話ではなく,平民に一般的な話である。ミクロネシアやポリネシアではカヌーや魚獲りのテーマが神話や伝説に頻繁にあらわれ,これら地域は本質的に島文化であることを物語っている。年長者と年少者の対立は重要なテーマであり,ミクロネシアではルクの対立者である醜い悪意を持ったオロファトまたはヤラファスは年少者であり,火や悪事を人間にもたらす。またポリネシアのマウイやタハキも年少者であり,兄弟の争いとしてあらわれる。ミクロネシアでは地位の低い主人公が超自然力を持つスピリットの援助により富を得ることで地位や名声を獲得するが,ポリネシア社会では祖先から受け継がれるマナはしばしば長子に相続されるように,系譜が重視され,主人公の地位や影響力は系譜中の位置によって決定されている。
(2)メラネシア メラネシア地域は多数の地域社会や言語集団からなり,パプア・ニューギニアだけでも700を超える言語がある。この地域の神話は多様で流動的であり,状況に応じて変化し,地域社会に特有のものが数多くあるが,いくつかの共通のテーマを見いだすことは可能である。近親者を殺害することで文化が始まったとする神話は広く分布し,パプア・ニューギニアのオロカイバ族ではトトイマという半人半豚の人食いの父親を子供が殺すことで現在の社会が始まる。このトトイマの話と類似のシド(キワイ族)やソソム(マリンド・アニム族)などの文化英雄は豊饒と死を説明し,農業や親族規範を人間にもたらす。祖先のこれら文化英雄は一般に男のヘビであると考えられているが,ニューギニアのセピック地方,ソロモン諸島,ニューヘブリデスなどではこの祖先のヘビは女である。また,兄弟姉妹の近親相姦によって人間に豊饒がもたらされるなど,これら最初の創造は日常の慣習とは逆の行為であり,現在の秩序は現実の逆転した行為から創造されたものであるとみられている。死や不幸の説明は神話時代に祖先が犯した間違いにより生じたものであるとされる。宇宙の創造はあまり語られないテーマであるが,太陽などの宇宙存在は人格化されており,通常,道徳の維持者とみなされ儀礼対象となっている。神話は力の源泉であり,特定の集団の始まりを説明するだけでなく,集団を維持し,存続させるのにこの力がいかに必要であるかを説明する。この神話的思考方法は,今日のヨーロッパ人の持つ富と地位の獲得を目ざすカーゴ・カルトの中にもあらわれ,伝統的テーマと宣教師から学んだ聖書の話とを結合させた新しい神話をつくる。パプア・ニューギニアのマダン地区では造物主はドドまたはアヌツ,キリストはアヌツの息子であるキリボブまたはマヌプとされている。このキリボブはカヌー,彫刻を,マヌプは恋の呪術,妖術,戦争をつくった文化英雄でもある。
執筆者:矢野 将
アジア大陸から島づたいに移住してきた諸民族は,互いに孤立していたため,各地に多様な文化が複雑に錯綜して展開した。そのためオセアニア美術はきわめて多様な地方様式をみせている。この項ではオセアニア美術の概説にとどめたため,詳しくは個別の項目を見られたい。オセアニアにおける最も古い文化はオーストラリアにみられる。オーストラリアの先住民であるアボリジニーの美術としては,凹刻,彩色を施した祭儀棒や日常の道具,アーネム・ランドを中心とする北部オーストラリアの樹皮絵画と岩面画が注目される。岩面画は年代も古く,北部に限らず大陸にあまねく分布しているが,現在の住民やその祖先との関係は明らかではない。ポリネシア人の美術は地域が広範であるにもかかわらず,全域にわたって一様性を示している。この地域には発達した木彫がみられ,なかでもニュージーランドのマオリ族の精巧な透し彫,浮彫が注目される。ポリネシアでは土器や織物の製作をせず仮面もつくらないが,衣料や敷物に使われるタパ(樹皮布)に技術的にすぐれたものがみられる。ほとんど小さな環礁からなるミクロネシアは造形芸術に乏しい(ミクロネシア人)。東部にポリネシア西部のものと共通する様式の木彫像がみられ,西部にはインドネシアからの影響を示す家屋建築や織物がある。以上の地域と比較して,メラネシア人の造形芸術はとりわけ豊富で,祖先崇拝,秘密結社,トーテム信仰などにもとづく美術が発達した(ニューギニア島)。すなわち,さまざまな仮面をはじめ,神像,トーテム像,楽器,武具,土器,また祭儀用大建築に施される彫刻や絵画などに,幻想的でダイナミックな造形がみられる。
執筆者:福本 繁樹
広大な海洋の中の島という自然条件のもと,オセアニアの大半の地域では楽器の種類が限られているので,伝統芸能は手近な身体そのものを活用した声楽と舞踊の表現において,ユニークな多様性を示している。このことはポリネシアとミクロネシアで顕著である。
声楽についていえば,日常の話し言葉の抑揚を強調し,音階音よりも滑音(グリッサンド)を多用した朗唱(たとえばハワイの無伴奏独唱歌オリ)やリズミカルな叫び(マオリの激しい舞踊ハカに伴う発音)ないしつぶやき(パラオの風刺歌ダラン)を一方の極端とすれば,他端には和声的な合唱(ポリネシアの大半)や音色,音高を声部ごとに区別した多声部唱法(パラオの踊り歌や葬送歌)がある。合唱では平行歌唱がとりわけ多く,8度(オクターブ),6度,3度,4度,5度によるものが,ヨーロッパの影響としてではなくポリネシアの伝統として行われてきたし,ミクロネシアでは2度平行歌唱さえきかれる。
こうした声楽技法を駆使するための歌詞は,日常語とは異なる(しばしば古代的で歌い手自身にも意味不明の)語彙や押韻を工夫した詩型に基づいているのが通例である。歌詞内容としては,代々伝えられてきた航海術,漁労やカヌー製作の技術(中央カロリン諸島),先祖がもと住んでいた島のようすと移住後の系譜,慈愛に満ち手腕にたけた指導者の偉業(ハワイ,トンガ,パラオなど),親子や異性間の愛などが多く扱われている。こうした主題に基づいて女性が一人ないし集団で作詞する場合が多く,ジャンルにより伝統的に厳密に規範化された旋律型にあてはめてうたわれる。おもなジャンルとしては,子守歌,遊び歌,集会歌,恋歌,風刺歌,踊り歌,儀礼歌,葬送歌,哀悼歌がほぼ全域にあり,音楽が生活の一部となっていることがうかがえる。
大きな島の多いメラネシアでは比較的楽器の種類が多く,その一部がミクロネシアとポリネシアに流出・導入されたと推察されている。たとえば,オセアニアを代表するスリット・ドラム(割れ目太鼓)はミクロネシアを除いてほぼ全域で大小さまざまのものが分布しており,遠くへの信号発信具として(セピック川流域のガラム)あるいは舞踊伴奏のリズム楽器として(タヒチのトーエレ)活用されている。膜鳴楽器としての太鼓は,メラネシアとミクロネシア東部で筒形ないし砂時計形の片面太鼓を手でかかえて奏するのに対し,ポリネシアでは鍋形ないし筒形の片面締太鼓を床に立てて奏する違いが目だつ。後者の形態をアジア的なものとみなすことも可能で,他の楽器についてもフィリピン経由でオセアニアに入ってきたと思われるものがある。口琴がその例で,カロリン諸島各地での薄い竹板製のものは明らかに東南アジア起源であり,メラネシアの竹筒口琴やポリネシアの木製口琴とは系統が異なる。笛の類は,口で吹くもの,鼻で吹くもの(ノーズ・フルート)いずれもオセアニア全域に分布している。
ほかにメラネシアの擦り木やうなり木(ブル・ロアラー),ミクロネシアの棒踊用の打奏棒,ポリネシアの楽弓,メラネシアのオカリナ(容器形フルート)が挙げられる。また広義の楽器としてイースター島の共鳴体つきの石板(踏みつけて鳴らす)や,ポナペのサカウ(カバ酒)を木の根からたたき出す儀礼のための玄武岩の台(グループで搗き鳴らしてポリリズムとなる)などがある。
楽器を伝達ないし音楽の表現手段として利用するときの意味づけのしかたは,必ずしもオセアニア全体で一様ではない。ミクロネシアでは楽器の音を畏怖する傾向があり,したがって器楽的な演奏の場が極端に少ないのに対して,メラネシアでは娯楽的にも(フィジーの搗奏竹筒によるにぎやかな合奏)また儀礼的にも(ニューギニアで祖先に見立てられ神聖視される笛の重奏や,ソロモン諸島のパンパイプの合奏),楽器が純器楽用に使われる機会が多い。ポリネシアはいわばその中間で,歌や踊りの伴奏として積極的に応用され,ハワイの石のカスタネット(イリイリ)やガンビエ諸島の太鼓(パウ)がその例である。
このように,楽器の種類が少ない反面,類似の楽器でも島ごとに微妙に異なる材料やつくりが観察される。材料はその土地の植物相,動物相に依存することが多く,たとえば太鼓の膜面としてポリネシアではサメなどの魚の皮,ミクロネシアではサメの胃袋やうきぶくろや皮,メラネシアではこれらに加えてトカゲ,まれには蛇皮,ワニの腹皮,豚の腹皮などが使われる。しかし常に自給自足するのではなく,隣接ないし遠隔の他の共同体から輸入することも行われ,これがとくに盛んなのは,ニューギニアの海岸部と山地の諸部族の間の交易である。
発音のための手段としては上記のような声と楽器に限らず,舞踊の動きと関連した身体部分にも工夫がこらされているのがオセアニアの特徴である。両手を打ち合わせる手拍子,横列配置の群舞では隣の人の手と打ち合わせることも含めて,さらに膝,ももの内側と外側,胸,腕,腕を曲げた時のひじのくぼみなどを手でたたき,その手の形も平手とくぼめた掌を区別して使い分けたりする。こうした身体打奏は,リズム,音色配列,舞踊振付といった観点からパターン化されて,りっぱな音楽舞踊の語法となっている。
オセアニア舞踊の一般的な類型は,立踊,座踊,扇踊,棒踊のように身体姿勢や小道具を基準にして区別され,それぞれのジャンルで身体の動きがソロや群舞の形態に応じて様式化されている。たとえば航海に関する踊りでは,カヌーをこぐ動作を舞踊化した優美な前後運動が見られるし,自然をたたえる踊りでは花や鳥を写実的に手の動きで描写する。こうした当振(あてぶり)による舞踊表現はとくにポリネシアで顕著であり,最初に作られた詩に対して踊り(動作)を補足的につけるという点で,日本舞踊と共通する一面が認められる。しかし,実際の身体運動にはポリネシア的なおおらかさがあり,腕や手首のゆるやかな円運動(トンガ),指先や腰のゆったりとした動き(ハワイのフラ),激しい腰の動き(タヒチ),つき出した掌をふるわせたり舌を出して形相をかえる戦闘踊(マオリ)といったように,各地で独特の様式が確立している。ミクロネシアでは当振的な表現に加えて,棒踊(ポナペ,ヤップ)や扇踊(マーシャル諸島)により,幾何学的な軌跡を空間に描くことにより抽象的な美を求める傾向がうかがえる。ポリネシア,ミクロネシアを通じて,舞踊は来客や貴人に見せるための意味をもたされており,特別の舞台,広場,建物などが用意されていて,舞踊は固定された空間の中で提示される。
これとは対照的にメラネシアの舞踊は,見せるためのものというより,共同体の特定の構成員(性別,年齢集団別,血縁集団別)がいっしょに参加して儀式を執行するという性格が強い。そして,成人式などの通過儀礼において,ある場所から別の場所へと移動する過程での身体運動が様式化されて舞踊となっていることが多い。
これまで述べたような伝統音楽・舞踊は,純粋の形で現在に至るまで伝承されている例は,ニューギニア内陸部やメラネシア島嶼部の一部を除けばまれであり,大半はむしろヨーロッパ的な要素と結びついて新しい芸能文化を開花させてきた。その典型となるのがハワイアン・ミュージックである。ウクレレやギターは他の地域でも積極的に導入され,現代的な要求に呼応した汎太平洋的なポピュラー音楽として統合されつつある。舞踊についても,島ごとの伝統的要素を部分的に強調しながらも,汎太平洋的な統一をはかる傾向が認められる。
執筆者:山口 修
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
大洋州ともいう。オーストラリアと太平洋諸島をあわせた地域。太平洋諸島は,メラネシア,ミクロネシア,ポリネシアに分けられる。1513年にスペイン人バルボアは,パナマ地峡でヨーロッパ人として初めて太平洋を望見し,20~21年,マゼランの一行は太平洋を横断して,オセアニア地域に対するヨーロッパの関心を喚起した。その後,メンダーニャ,キロス,トレス,タスマン,クック(ジェームズ)などによる数々の探検航海によって,オセアニア地域の全貌が徐々に明らかにされた。19世紀になってからは,ヨーロッパ各国の植民地獲得競争が始まる。特にその中心となったのはイギリス,フランス,ドイツであり,第一次世界大戦後は日本も国際連盟からミクロネシア地域の統治を委任された。第二次世界大戦では各地で日本軍と連合国との本格的な戦場となった。戦後は各地域の独立が進んだが,政治的・経済的に旧宗主国に依存する度合いが依然として大きい。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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