ローマ皇帝。在位117-138年。五賢帝の第3番目。ヒスパニア(スペイン)の出身で,トラヤヌスの庇護下で育てられギリシアの学問を学んだのち,軍事・行政職を歴任した。彼のシリア総督在任中,トラヤヌスは死の直前,彼を養子・後継者とした。ハドリアヌスは不穏な動きをした元老院議員を処刑し,トラヤヌスが征服したものの,維持が困難になっていたメソポタミア方面の属州を放棄して統治に着手した。彼はアウグストゥスを模範として称号を簡単にし,帝国の拡大をやめて国境の安定に努めた。イギリスに現存して,イングランドとスコットランドを隔てている〈ハドリアヌスの防壁〉はその姿勢を象徴している。同時に帝国内の統合をめざし,法の整備,官僚の組織化,地方諸都市の保護,ローマ・イタリアと地方属州の区別の解消,軍団の現地徴募,貨幣・徴税システムの均一化などの諸施策によってそれを進めた。元首顧問団を強化して行政にあずからせ,法学者には法の集成を行わせて,法務官(プラエトル)告示を集めた〈永久告示録〉を編纂させた。また地方差解消と治安のために長期間国内を巡遊して,小都市までも訪れ,訴えを裁き,各地に物的援助を与えた。その結果,平和と安定により帝国全域のローマ化・都市化,ローマ・ギリシア文化の発展は頂点に達した。また社会的には全帝国において上層・下層の身分が画定してゆき,都市国家的性格がいよいよ薄くなっていった。
彼はギリシア文化,特にアテナイ市を愛し,図書館やオリュンピエイオンなどを贈った。ハドリアノポリスHadrianopolis(後のアドリアノープル,現トルコ領エディルネ)も彼の建設にかかる。またローマにも巨費を投じてパンテオン,自身の霊廟,大ウィラ(ティボリ近郊の離宮)などを造営した。彼はローマ史上初めてのひげを生やした皇帝で,複雑な性格の持主だったという。ユダヤの反乱(第2次ユダヤ戦争)は徹底的に弾圧してエルサレムに新植民市を建て,愛人の美少年アンティノオスAntinoosが死ぬと,そのために都市や神殿を建てるなどの一面もあった。
占星術をもよく学んだ。アントニヌス・ピウスを後継者とし,マルクス・アウレリウスをその養子とさせたのちに没した。
執筆者:松本 宣郎
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ローマ皇帝(在位117~138)。五賢帝の三番目の皇帝。トラヤヌス帝(在位98~117)と同じくスペインのイタリカ出身で、トラヤヌス帝の遠縁にあたる。85年に父を亡くし、トラヤヌスの後見を受ける。その後軍事、政治の要職を歴任し、第一次、第二次ダキア戦争にも従軍。トラヤヌスのパルティア遠征の際にはシリア総督であり、トラヤヌスが117年にキリキアで病死したとき、死に際に養子とされ、帝位を継いだ。対外政策はトラヤヌスと対照的に平和的、防衛的であり、パルティアと和し、属州の防衛や統治の強化のために121~134年にかけて帝国各地を巡察した。その際、ブリタニアに、いわゆる「ハドリアヌスの長城」を築いた。ユダヤ人の反乱(132~135)だけが治世の平穏を破る事件であった。ハドリアヌスは行政機構の改革に多くの成果を残し、都市の建設や建築造営にも多大な関心を示した。136年ルキウス・アエリウスを養子として後継者に指名したが、138年に彼が病死したためアントニヌス・ピウスを新たに指名し、同年7月10日に死亡した。
[市川雅俊]
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76~138(在位117~138)
ローマ皇帝。ヒスパニアの出身。政界に進み,トラヤヌス帝のあと帝位を継ぐ。五賢帝のうちの第3番目にあたる。前帝の対外積極政策から転じて,防衛強化と国力充実に努めた。帝国内を視察して回り,ブリタニアでは城壁を築いた。行政機構と軍制の整備は,以後の帝国の組織の土台を固めたものである。ハドリアノポリス(英語でアドリアノープル,現エディルネ)などの都市建設や,アテネ,ローマにおける神殿建設でも知られる。
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