ドイツ語をそのままとってエネルゲティークともいう。ギリシアのデモクリトスに発する原子論は,17世紀ヨーロッパで本格的に復活したが,それはやがてR.ボイル,ドルトンの系譜をたどって化学の世界に花開く。しかしその原子論と無関係ではないにせよ,物理学の世界で,原子論的世界観があらためて大きな問題となった時期があった。19世紀末から20世紀初頭にかけてのことである。この問題はドイツを舞台に繰り広げられたので,この物理学における原子論的世界観は,しばしば当時のドイツ語の用語をとってアトミスティークAtomistikといわれる。エネルギー論またはエネルゲティークは,このアトミスティークに対抗して提案されたもう一つの世界観である。
アトミスティークとエネルギー論との論争の最初のきっかけは,1895年にリューベックで開かれたドイツ自然科学者・医師協会総会の席上で,オストワルトが行った,ボルツマンらのアトミスティークを批判する講演であった。主としてこのオストワルトの立場をエネルギー論と呼ぶ。アトミスティークが,物理的現象をすべて構成原子の力学的運動によって記述しうると考えるのに対して,エネルギー論は,物理的な概念や法則はすべてエネルギーを扱う法則系に還元されなければならないと主張する。アトミスティークを主張したボルツマンは,エネルギー法則として19世紀半ば過ぎに確立された熱力学の第2法則(エントロピー増大の法則)に分子の運動論的な解釈を与え,さらにそうした分子運動論では,ニュートン力学のような一義的な力学法則ではなく,確率統計的な方法の導入が必要であることを提唱した。こうした熱現象(あるいは熱現象に関する法則)の原子論的,かつ力学的な読換えに対して,オストワルトは,熱現象を原子的モデルでとらえるのではなく,エネルギーモデルでとらえるべきことを主張したのであった。
こうしたエネルギー論の背景として,19世紀熱学の展開のなかで,熱現象を現象論として把握するという態度が生まれており,それがボルツマンらの力学的原理に立ち戻ろうとする主張への反発を醸成したと考えられるが,その意味ではE.マッハもまたエネルギー論の側に立って,ボルツマン批判の論陣を張った。オストワルトは,実際上の存在としての原子を認めなかったわけではなく,一種の世界観としてのエネルギー一元論を抱いていたというべきだろう。ボルツマンは,みずからの熱学の統計力学への書換えのプログラムが人々に受け入れられない不満も原因の一つだったのか突然自殺してしまう(1906)が,その後の物理学の展開は,むしろボルツマンのプログラムの方向に進んだといえよう。
→原子論
執筆者:村上 陽一郎
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…カントからヘーゲルに至るこの古い機械論批判の過程において哲学用語としての〈機械論〉の概念が定着したのであるが,19世紀には事実上この意味での機械論はすでに乗り越えられていたのである。すなわち,古い機械論の産物であった燃素(フロギストン)説は乗り越えられて近代化学の成立となり,熱素(カロリック)説も克服されてエネルギー論Energetikが成立した。これは原動機モデルの機械論であった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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