おしろい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「おしろい」の意味・わかりやすい解説

おしろい
おしろい / 白粉

化粧品の一種。肌の色を整え、皮膚の欠点を隠すのが目的だが、油性分の多いファンデーションによる不自然なつやを消し、滑らかな外観にすることもできる。また、化粧してから長時間経過すると、汗腺(かんせん)や皮脂腺からの分泌物によって、顔が光ってきたり、化粧くずれがしたりするおそれがあるときに用いられる。

 おしろいは次のものを混合してつくる。(1)酸化チタン、ステアリン酸亜鉛などは付着力がある粉末で、もちをよくする。(2)マイカカオリン炭酸マグネシウムなどは皮膚の感触とケーキの硬さをコントロールする。(3)タルクは厚化粧用、薄化粧用の違いによって使用量を調節する。このほか、エステル類、高級アルコール類、その他のオイル少量と、着顔料、香料が適量含まれている。

[横田富佐子]

日本

わが国に、中国からおしろいが入ってきて国産化されたのは713年(和銅6)で、僧観成(かんじょう)によって、「はふに」という鉛を材料としたものや、「はらや」という水銀を材料としたものがつくられた。平安時代の公家(くげ)社会における女性たちは、お歯黒をするのと同じように、おしろいで化粧することを慣行とした。次の武家社会の時代に入ると、おしろいは女性ばかりのものではなく高貴な男性の間でも、身だしなみとして使用されることになった。『平家物語』には、平家の公達(きんだち)がおしろいをつけたりして化粧する姿が記されている。室町時代の中ごろにつくられた『七十一番職人尽歌合(しょくにんづくしうたあわせ)』には、「白い物売り」として女性の商人が描かれ、民間でもおしろいを用いる風習がおこったことが知られる。当時は顔につけるものであって、後世のような鼻を高くみせる鼻おしろいということはなかった。

 江戸時代になると水銀製の「伊勢(いせ)おしろい」のほかに、銭屋宗安(ぜにやそうあん)の「銭屋おしろい」と薬屋(くすりや)の小西清兵衛(せいべえ)の「小西おしろい」が売り出された。一方、吉原その他遊里の発達につれて、これまで公家の妻女たちが行っていた厚化粧は、あまりみよいものではないとされ、薄化粧に移った。そして、おしろいを顔ばかりでなく、耳の下から胸まで残らず塗るようになった。元禄(げんろく)時代(1688~1704)は、町人文化が発達して、江戸文化のもっとも華やかな時代であり、当時の女性の化粧法は、薄化粧であった。しかし町人文学を代表する井原西鶴(さいかく)の作品には、厚化粧が多く書かれている。これは、江戸と上方(かみがた)の風俗を比較するうえに重要なことであり、同時に京、大坂では古い風習が堅持されていたことを示している。江戸時代末期に記された『守貞漫稿(もりさだまんこう)』(『類聚(るいじゅう)近世風俗志』)をみると、江戸と上方の化粧法を比較して、江戸の化粧は薄化粧、上方は厚化粧で、これを花にたとえると、江戸は白梅のように清楚(せいそ)であり、上方は牡丹(ぼたん)のようにあでやかであるといっている。その違いは、土地柄、人情、好みの相違から生まれたものである。江戸時代末期には、歌舞伎(かぶき)の流行から、歌舞伎役者の扮装(ふんそう)をまねて鼻を高くみせる鼻おしろいがおこり、さらに顔よりも襟から胸までを白く塗る上方風の襟おしろいが流行していった。

 幕府の崩壊と明治政府の発足は、日常生活に大きな変化を与え、鹿鳴館(ろくめいかん)時代の到来とともに、女性も洋風化の道をたどることになった。鉛おしろいが鉛毒をもたらすことから、1878年(明治11)に「東(あずま)の錦(にしき)」という無鉛おしろいが発売され、さらに明治30年代には、「水晶おしろい」あるいは「はつねおしろい」また「園(その)の雪」などが製造されて、おしろいの品質も向上した。化粧法も美容という立場にたって総合的に考えるようになった。1934年(昭和9)鉛毒が問題となって鉛おしろいは禁止され、おしろいの材料も、亜鉛華、タルク、マグネシウム、二酸化チタンなど数百種に及ぶ原料が用いられ、今日に至っている。

[遠藤 武]

西洋

フェイス・パウダーという。諸説あるが、おしろいの起源はおよそ5000年前と推定され、古代エジプトでは紀元前2500年から、黄土色オレンジ色の顔料がおしろいとして使われていた。顔を白くする風習は古代ギリシアに始まり、胡粉(ごふん)や白亜土(チョーク)などの白色顔料とともに、今日のおしろいの原型となった鉛白製のおしろいが用いられた。古代ローマでもおしろいは盛んに使用されたが、中世にはキリスト教の禁欲主義が影響して化粧は影を潜め、その習慣はビザンティンとイタリアだけで守られていた。

 16、17世紀になると、つや消しの白い顔が賞賛され、大理石のように真っ白に塗ることが流行しはじめた。当時も鉛白を用いた有害なおしろいが主であったが、代用品として真珠を焼いて粉にしたパール・パウダー、「スペインの白」といわれた白墨の粉、「パリの石膏(せっこう)」とよばれた雪花(せっか)石膏(アラバスター)の粉末、ブタのあご骨の粉、香りをつけたデンプンなどがあった。当時のおしろいは粉末のままで売られていたので、今日でもおしろいのことを粉(英語ではパウダーpowder、フランス語ではプードゥルpoudre)といっている。

 おしろいの有毒性が問題化するようになったのは、18世紀も末期近くからであった。1866年には、変色しない、無害で安価な酸化亜鉛(亜鉛華)のおしろいが売り出された。1916年に酸化チタニウム(チタン白)が発見されると、その後はこれを原料にした無鉛おしろいの時代になる。

 おしろいには、粉末状の粉おしろい(ルース・パウダー)と、粉おしろいを圧縮した固形おしろい(プレスト・パウダー)がある。今日では簡便なコンパクト入りの固形おしろいが主流であるが、新製品としてファンデーションとパウダーが同時につけられる、両用のコンパクトが登場している。

[平野裕子]

『池田亀鑑著『平安朝の生活と文学』(1966・至文堂)』『ジャック・パンセ、イヴォンヌ・デランドル著、青山典子訳『美容の歴史』(白水社・文庫クセジュ)』『久下司著『ものと人間の文化史・化粧』(1970・法政大学出版局)』『リチャード・コーソン著、ポーラ文化研究所訳、石山彰監修『メークアップの歴史――西洋化粧文化の流れ』(1983・ポーラ文化研究所)』


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