ルイフィリップ(英語表記)Louis-Philippe

デジタル大辞泉 「ルイフィリップ」の意味・読み・例文・類語

ルイ‐フィリップ(Louis-Philippe)

[1773~1850]フランス国王。在位1830~1848。ブルボン家の支流オルレアン家の出身。フランス革命初期より自由主義者として活躍したが、のち亡命。1830年の七月革命で迎えられ即位。「市民王」と称したがしだいに反動化し、二月革命で追放され、ロンドンで客死。

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精選版 日本国語大辞典 「ルイフィリップ」の意味・読み・例文・類語

ルイ‐フィリップ

  1. ( Louis-Philippe ) 七月王政期のフランス国王(在位一八三〇‐四八)。ブルボン家の支流オルレアン家の出。はじめフランス革命を支持、のちに亡命。王政復古後帰国し、自由主義者たちの支持で七月王政をしいた。「市民王」と称したが、次第に反動化し、二月革命で追放され、ロンドンで客死。(一七七三‐一八五〇

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ルイフィリップ」の意味・わかりやすい解説

ルイ・フィリップ
Louis-Philippe

[生]1773.10.6. パリ
[没]1850.8.26. サーリ,クレアモント
フランス王 (在位 1830~48) 。オルレアン公ルイ・フィリップ・ジョゼフの息子。バロア公,シャルトル公,オルレアン公を経てフランス王となった。フランス革命のときジャコバン・クラブに入り,また国民軍将校としてバルミー,ジュマップの戦いに参加した。 1793年1月国民公会で国王ルイ 16世の処刑が決定されると,革命の立場を捨てスイスに亡命。同年 11月山岳派によって父が処刑されると,オルレアン公の地位を継ぎオルレアン王朝派の中心的存在となった。 95~96年スカンジナビアを旅行し,次いでアメリカに渡った。 1809年ナポリ王フェルディナンド4世の娘マリア・アメリアと結婚。 14年第1次王政復古とともに帰国し,自由主義者たちと接近した。 15年ナポレオン1世の「百日天下」の際はイギリスに亡命したが,第2次王政復古で帰国。旧所領と財産の再建に力を入れた。 30年七月革命のとき王国総代理官を自称し,銀行家 J.ラフィットと自由主義政治家の支持を受け,「フランス国王」でなく,「フランス人の王」 Roi des Françaisとして即位,七月王政を開始した。彼の時代には,うちつづく経済不況の圧力を受けた労働者階級の運動が空前の発展をみせ,政府はこれを弾圧,さらに外交上の失敗から,また最終的には,彼の狭量な保守主義と政治・社会問題を解決する意志のないことから,48年二月革命が起った。彼は孫のパリ伯ルイ・フィリップ・アルベールに王位を譲ったが,王政は廃止され,イギリスに亡命した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ルイフィリップ」の意味・わかりやすい解説

ルイ・フィリップ
るいふぃりっぷ
Louis Philippe
(1773―1850)

オルレアン公、フランス王(在位1830~48)。父は進歩的貴族としてフランス革命期に活躍し、恐怖政治時代に刑死したフィリップ・エガリテ(平等公)Philippe Égalité(正称Louis Philippe Joseph, duc d'Orléans、1747―93)である。彼自身も革命時にはジャコバン・クラブに入り、革命戦争にも参加したが、1793年3月ネールビンデンの敗戦後、司令官デュムーリエの反革命陰謀に加担して失敗、以後約20年間ヨーロッパ各地およびアメリカで亡命生活を送った。

 1814年、王政復古とともに帰国し、亡命以来国家に没収されていた広大な所有地の返還を受けた。彼は復古王政期から自由主義的反政府派の後援者として知られていたが、30年の七月革命によりラフィットらのオルレアン派ブルジョアに推されて「フランス人の王ルイ・フィリップ1世」として即位、7月王政を始めた。王は初め中道左派のラフィットに政府をゆだねたが、31年3月以降ペリエ、ブロイ公ら保守派の政治家を登用して国内秩序の確立、大ブルジョアの寡頭支配の安定化に努めた。当時のフランスでは議会政治慣行が成立しつつあったが、王はイギリス風の立憲君主であることに満足せず、自ら国政に指導的役割を果たそうとして内閣議会としばしば対立し、39年の下院選挙では王の個人支配に反対する野党連合が勝利を収めた。しかし40年以降、内閣の中心ギゾーの全面的協力と議会多数派の支持のもとに、国内ではいっさいの政治的・社会的改革の拒否、対外的にはイギリスとの協調政策という自己の政治路線を強力に推進することができた。しかしこの頑迷な保守政治は中小ブルジョア、労働者らの不満を激化させ、ついに48年2月パリに革命的騒乱勃発(ぼっぱつ)、7月王政は崩壊する(二月革命)。王は首相ギゾーを解任して事態を収拾しようとしたが、時すでに遅く、王位を孫パリ伯に譲ってイギリスに亡命、2年後の50年8月26日同地で没した。

[服部春彦]

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百科事典マイペディア 「ルイフィリップ」の意味・わかりやすい解説

ルイ・フィリップ

フランス最後の国王(在位1830年―1848年)。オルレアン家出身で,自由主義貴族フィリップ平等公の子。フランス革命とともに国民軍やジャコバン・クラブに加わりバルミーの戦に参加。1793年以後亡命。王政復古期には自由主義的反対派として活躍,七月革命により即位(七月王政)。新憲法を承認し民主的な政治を行ったが,次第に右傾し,1848年二月革命で英国に亡命,客死。
→関連項目ドーミエ

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改訂新版 世界大百科事典 「ルイフィリップ」の意味・わかりやすい解説

ルイ・フィリップ
Louis Philippe
生没年:1773-1850

フランス最後の国王。在位1830-48年。オルレアン公フィリップ・エガリテの長男。百科全書派アンシクロペディスト)の影響からフランス革命に同調し,国民軍ジャコバン・クラブに加入,また連合国軍との戦いに加わり各地を転戦したが,恐怖政治の出現で亡命した。王政復古後はブルボン王党派に排斥され,フランスへの最終的な帰国は1817年となった。七月革命が実現すると,ラフィットら銀行家の支持で王位に就いたが,民衆運動を抑圧するとともに,商工業の生み出す富が銀行家の手に独占される傾向を促し,そのため〈株屋の王〉などと呼ばれ,鋭い批判を浴びた。二月革命でイギリスに亡命,以後この王家の支持者はオルレアニストと呼ばれた。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ルイフィリップ」の解説

ルイ・フィリップ
Louis-Philippe

1773~1850(在位1830~48)

オルレアン家から出て七月革命で王位についたフランス国王。フランス革命中は亡命し,復古王政で帰国すると上層市民の自由主義者たちと交わり,彼らの支持で七月王政をしいたが,二月革命で追放され,イギリスで死んだ。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ルイフィリップ」の解説

ルイ=フィリップ
Louis Philippe

1773〜1850
フランス王(在位1830〜48)
オルレアン家の出身。フランス革命後亡命し,王政復古で帰国,このころ自由主義派に接近。1830年七月革命の勃発後,金融ブルジョワ自由主義者の支持で「国民王」として即位(七月王政)。市民からの共感を得るのにつとめたが,しだいに上層ブルジョワジーの利害を優先させ,1840年以降腹心のギゾーとともに共和派の諸改革要求に反対し,ついに選挙法改正問題から二月革命が起こり,イギリスに亡命。

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20世紀西洋人名事典 「ルイフィリップ」の解説

ルイ フィリップ
Louis Philippe


1959 -
フランスの演奏家。
本名オークレー フィリップ。
最初パリで哲学を学ぶが、1983年頃からポップの演奏を始め、ベルギーのクレプスキュール・レーベルに認められグループでレコードを発表、その後渡英、エル・レーベルからソロでデビュー。メロディーを重視した爽やかなポップスで日本でも人気を得る。

出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報

367日誕生日大事典 「ルイフィリップ」の解説

ルイ‐フィリップ

生年月日:1773年10月6日
フランス国王(在位1830〜48)
1850年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のルイフィリップの言及

【オルレアン王党派】より

…オルレアン王党派は王政復古期には自由主義的反対派として政府と対立し,1830年の七月革命によって政権の座についた。七月王政は,オルレアン公ルイ・フィリップ(先のオルレアン公の子)を国王とし,大商人,自由主義的大貴族,法律家,ナポレオン帝政期の貴族,大学教授などの名士に支持基盤をおいていた。オルレアン王党派は社会的地位と富におけるエリート集団をなしており,政治的には中庸を旨とし,無政府主義にも専制主義にも反対し,民主主義と同じく家柄の特権に対しても敵意を抱いていた。…

【七月王政】より

…1830年の七月革命で成立したフランスの王政。オルレアン朝のルイ・フィリップを国王とし,48年の二月革命で第二共和政が実現するまで続いた。社会的には,ようやく軌道にのり始めた資本主義的工業化と,伝統的生活様式や生活習慣との間の緊張が激化してきた時代である。…

【ドーミエ】より

…少年時代は生活のために働きながら絵や石版術を学んだ。ルイ・フィリップを洋梨になぞらえたフィリポンCharles Philipon(1804‐62)が主宰している風刺雑誌《カリカチュール》,《シャリバリ》を舞台に,シャルレNicolas Toussaint Charlet(1792‐1845),トラビエCharles‐Joseph Traviès(1804‐59),ドベリアAchille Deveria(1805‐59)らと共通する様式の石版風刺画家として声価を確立する。その契機となったのは洋梨風の国王を貪欲な巨人に見たてた《ガルガンチュア》(1830)で,このため6ヵ月の入獄と罰金が科された。…

※「ルイフィリップ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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