オロン・スム
Olon süm
Olan süme
中国,内モンゴル自治区ウランチャブ(烏蘭察布)盟百霊廟の北北東,アイブガ川左岸にある元代のオングート(汪古)部の土城址。1929年,ヘディン西北科学考査団の黄文弼(こうぶんひつ)によって元碑のあることが発見された。その後,江上波夫はここに十字架のある景教徒の墓石を発見し,35-41年に3度の調査を行った。長方形の外城(南北約570m,東西約960m)とほぼ方形の内城(南北約280m,東西約290m)からなり,内城の東区内中央に宮殿址がある。外城からは,景教寺院とカトリック教会と想定される建物が発見され,後者はイタリア人司教モンテ・コルビノの建てたものと考えられている。モンテ・コルビノが改宗させたというフビライの外孫ゲオルギス王の陵墓も見いだされた。この調査で,オングート族がトルコ系であることや,彼らの信じたネストリウス派の教義は西方のそれより,中国のそれと密接な関係を有すること,また王傅徳風堂碑からはオングート王家の系譜などが明らかとなった。近年この城内にラマ教の多くの廟や塔が建てられ,オロン・スム(モンゴル語で〈多くの寺廟〉の意)の名が付されるにいたった。
執筆者:吉田 順一+岡崎 敬
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オロン・スム
Olon süme
元代のオングト部族の王府跡。中国内蒙古自治区の達爾罕(ダルハン)茂明安(モミンガン)連合盟,百霊廟(ひゃくれいびょう)の東北に長方形の大規模な城郭跡が残る。宮殿,カトリック寺院,景教寺院,仏塔の跡や,景教十字架の浮き彫りのある墓石,石碑などが発見された。このカトリック寺院は,13世紀の末にモンテ・コルヴィノによって建てられたものであることが,江上波夫の調査によって明らかになり,文化交流や民族の歴史研究のうえで重要な遺跡となっている。現在も遺物の収集,整理が進められている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
オロン・スム
おろんすむ
Olon Sum
元(げん)代のオングート部の王府跡。中国、内モンゴル自治区ウランチャブ盟百霊廟(ひゃくれいびょう)の北東にある。東西約960メートル、南北約370メートルの外城の中に内城があり、この両城の内部に中国式宮殿、カトリック教寺院の跡や、十字架の浮彫りのある墓石などが発見された。このカトリック教寺院は、13世紀の末にローマ教皇の使節モンテ・コルビノによって建てられた東アジア最古のものであることが、日本の東亜考古学会および東方文化学院の調査隊(1935年、39年、41年)によって明らかにされた。オロン・スムとは「多くの寺院、教会」を意味する。
[護 雅夫]
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オロン・スム
Olan Süme; Olon Süm
中国,内モンゴル自治区にある土城址。「多くの寺」の意。内モンゴル自治区ウラーンチャブ(烏蘭察布)盟,ダルハンモーミンガン(達爾罕茂明安)連合旗 (百霊廟) に近いモンゴル帝国の都市遺跡。元代の浄州天山県で,オングット部族の王の領地の中心地であった。モンテ・コルビーノの建てた東アジア最初のカトリック聖堂もここにあった。 1935年江上波夫らによって発見され,多くの景教の遺物や文書の断片が出土した。
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世界大百科事典(旧版)内のオロンスムの言及
【オングート】より
…汪古惕と漢音訳される。根拠地は陰山山脈北方の[オロン・スム]。遼,金に服属し,両王朝の北辺防衛の任に当たり,13世紀初めチンギス・ハーンが勃興すると,その部族長アラクシ・ディギト・クリはすすんで服属し,以来歴代部族長は皇室の娘と王号を与えられた。…
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