かぐ

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

かぐ
かぐ / 嗅ぐ

人間生活においては、見ること、聞くことに比べて、においを「ぐ」ことはそれほど重要な能力ではないように思われてきた。事実、視覚障害者や難聴者は、日常生活にあたってさまざまな不便を覚えるため、身体障害者として社会的保護を受ける。一方、鼻の疾患などにより、においをかぐ能力が失われることがあるが、紅茶やバラの香りがわからないという程度の不都合さえがまんすれば、普通に日常生活を営むことができる。もっとも、ガス漏れに気がつかないのは、甚だ危険である。[香原志勢]

動物の「かぐ」能力

多くの哺乳(ほにゅう)類、とくにイヌはかぐ能力が優れている。訓練を受けた警察犬は人の足跡を追跡することができるが、新品そのものの靴ではさすがに不可能である。数日でも履いた靴ならば、当人の足の汗のにおいが靴の内部に定着する。たとえゴム長靴であっても、信じられないほど微量の汗のにおいが靴の表面にしみ出て、一瞬着地したばかりの足跡にのり移る。警察犬はそれをかぎ分けるのである。
 動物を「嗅覚動物」と「視覚動物」に分けることがある。それはその生活法と密接に関係する。魚類にも両者は存在し、清流にすむ魚類は視覚に優れるが、濁った水にすむ魚類は嗅覚に勝り、たとえばナマズやサメなど、多くの魚類はにおいで餌(えさ)の所在や種類を知る。サケは川の浅瀬で孵化(ふか)し、稚魚時代をそこで過ごし、やがて川を下り、成魚時代は大洋を広く回遊し、数年後には同じ川に戻って、これを遡上(そじょう)し、産卵、放精し終わると斃死(へいし)する。生まれ故郷の川に回帰するのは、その川の水のにおいを記憶しているからだという。両生類のうち、カエルは視覚動物であるが、他は嗅覚動物である。爬虫(はちゅう)類も嗅覚動物に属する。しかし、鳥類は視覚動物であり、大部分のものは嗅覚の発達程度が低い。
 感覚というものを広く検討すると、かなり複雑であるが、ひと口でいうと、味覚と触覚は刺激体に接触することにより感受されるものであるため、「接触感覚」と称され、嗅覚、聴覚、視覚は、離れている刺激体を知覚するものであるから、「遠隔感覚」とよばれる。一方、嗅覚と味覚は、化学物質の分子またはイオンなどを通じて刺激体の存在を感知するものであるから、前者をさらに「遠隔化学感覚」、後者を「接触化学感覚」ということができる。遠隔感覚は接触感覚よりも進化した感覚といえる。[香原志勢]

情報伝達としての「かぐ」

哺乳類は、遠隔感覚である嗅覚、聴覚、視覚のうちの二つについて優れる。とくに嗅覚の勝っているものが多い。嗅覚は食物、異性、外敵などの探知に重大な役割をもつばかりでなく、周囲の情報を嗅覚によって入手する。瞬時に消える音声、身ぶり、言語と違って、けもの道に沿う枝や石、ねぐらなどに残された臭跡(しゅうせき)、あるいは糞(ふん)や尿のにおいは一定時間とどまり、仲間同士の間の置き手紙のような役割を果たす。動物たちがそのような物体をかぎ分けている姿は、人間が複雑な文章を解読するさまによく似ている。
 事実、哺乳類ばかりでなく、ゴキブリのような昆虫に至るさまざまな動物の間で、情報伝達物質としてのフェロモンが確認されている。ある動物の体外に分泌された物質がにおいの形で同種動物の他個体に到達すると、それをかぎ取った個体はある決まった反応を引き起こす。その物質がフェロモンである。つまりフェロモンは、発情させたり、危険を知らせたり、また発育を遅らせたり、さまざまな情報伝達の役割を果たす。それはことばではなく、信号であるといってよい。フェロモンは鼻のような嗅覚器、または触角によって感知される。
 においに関して、マウスの間でおもしろい現象が知られている。交尾直後の雌は相手の雄以外の雄と同居させられると、妊娠は阻止されてしまう(これをブルースBruce効果という)。また、複数の雌を雄のいないところでいっしょに飼うと、発情がすっかり遅れてしまう(これをリーブートLee-Boot効果という)。ところが、そのような雌の群れの中に雄を加えると、雌たちは一斉に発情するとともに、その性周期が一致するという(これをホイットンWhitten効果という)。これら三つの現象を説明するものとして、フェロモンがあげられ、このことから、かぐ能力がいかに哺乳類の性行動に重大な影響を与えているか知ることができる。
 人間は嗅覚が弱く、それだけに人間の行動をにおいの世界で解釈するのはむずかしいとされているが、アメリカの女子大学の寮生についての研究によると、絶えずいっしょに暮らしている女性同士の間では、月経周期が知らず知らずに一致するという結果が得られている。この事実はにおいで解釈されている。言語という形ですばらしい情報伝達手段を有する人間の間で以上の事実が観察されることは、興味深いことであり、人間における嗅覚の意義を考えさせられる。しかし、人間の間でフェロモンがあるか、いなかは論議されているものの、結論は出ていない。[香原志勢]

人間の「かぐ」こと

樹上生活を営む霊長類、とくに高等霊長類は視覚について非常に優れているが、嗅覚の発達が悪い。森林の中ではかぐ力よりも、見る力、聞く力、そして物に触れて指先で感じる力のほうが有用だからである。嗅覚が発達しないという点では、霊長類は哺乳類のなかの異端児といえよう。
 人間は、樹上生活を離れ、地上で二足歩行に移るが、感覚に関しては視覚と聴覚にいっそう依存するようになる。上下顎の退縮とともに外鼻が顔面より突出するが、鼻孔は前方開口から下方開口に変わる。人間の場合、においを直接感知する鼻粘膜嗅部は、呼吸部に比べてごく小面積にすぎず、それは鼻腔(びこう)の上部に限られる。そのため、においをかぐには、鼻腔の上方に吸気が届くように吸い込まねばならない。下等哺乳類では、嗅覚の中枢である嗅脳が大脳半球の半分以上を占めるが、人間ではそれは半球の下面のごく小部分を占めるにすぎない。このように人体の構造において、人間の嗅覚の地位低下はよく理解される。
 人間の文化はその人間がもつ言語と道具によるところが大きい。言語のうち音声言語は多様な音をとらえる聴覚が緊密にかかわる。また、視覚言語、すなわち文字と道具の製作・使用は、卓越した視覚、ならびに指運動の基盤となる指先の触覚の発達なしには生まれなかった。このように人間の主要な感覚5種のうち、視覚・聴覚・指頭触覚の3種は人類文化の成立に深く関与している。ただ、文化の基層である食生活は、味覚を中心として、嗅覚と色彩感覚が補助的に関与している。それは鼻かぜをひいたうえ、暗がりのなかで食べる食物がいかに無味乾燥であるかが証明するであろう。しかし一方で、化学工業や排気ガスのもたらす有害物質については、悪臭という形で嗅覚は確実に捕捉(ほそく)し、人類の生存を助ける。また食物の腐敗臭やアンモニアの刺激臭をも敏感に感知する。このように考えると、嗅覚は人類文化の育成には単独かつ積極的には参加していないかのようにみえるが、生命維持という、もっとも基本的な生存条件には厳しい検証者として介在しているといえる。
 今日の文明社会では、一般に、見る・聞く・味わう・触るという行為はそれほど失礼なこととはされないが、「かぐ」という行為は、場合と場所とを選ばないと、礼を失したことになる。とくに鼻を寄せて他者の身体をかぐことは、著しく非礼なふるまいとみなされる。かぐ行為は、たまたま空気中に漂ってきたにおいをかぐことで果たされる。すなわち、かぐという行為は、受け身の形でなされることが多い。また、嗅覚は疲労しやすいものであるため、強いにおいでも、しばらくするとそれに慣れてしまい、とくに感じなくなることがしばしばである。[香原志勢]

情緒の世界での「におい」

におい、嗅覚は情緒的なものと深く関係する。なお、日本語では「におい」は人間にとって本来よいにおい、つまり「かおり」を意味し、香、匂(国字)、芳、薫その他の漢字があてられるが、「くさい」は悪いにおいであって、「臭」が用いられる。よいにおい・悪いにおいを包括する漢字はなく、「におい」自身も本来の意味を拡大して用いられていることは興味深い。よいにおいと悪いにおいとは異質なものとなっている。いずれにしても、よい香りには心は和み、悪臭には理屈抜きで身構え、また避ける。においは、言外の情感、視覚文化では表現できないものを表す。ときには存在感、生命感覚すらもたらす。
 菅原道真(すがわらのみちざね)が左遷の地で恩賜の御衣の余香を拝する際には、追憶がある種の現実性にまで高まったといえよう。自分の服には自分のにおいが、家々の扉を開ければその家固有のにおいが、街をさまよえば、あるときはパン屋の香ばしいにおいが、ある街角ではガソリンスタンドの機械文明のにおいが人々の鼻孔に漂ってくる。それはかごうと積極的に構えなくとも、におってくるのである。あるときには、それは生きていく喜びを与えてくれる。せわしい現代社会のなかにあって、自己の存在を肯定してくれる媒体なのである。人間はかぐ能力が低いといっても、もし、においがまったく感じられないとしたならば、色のない世界、白黒テレビと同様な、味気ない世界になるであろう。
 人間の体臭は髪の毛のにおいや口臭などからなり、とくに重要なのは、わきの下や外陰部の汗のにおいである。これが強い場合、わきが(腋臭(えきしゅう)症)とよばれるが、それは日本人ならではの話で、白人や黒人の間では体臭が強いのが普通であるから、欧米語などでは、わきがに相当する単語はない。わきがの出現率には人種差がみられる。日本人の間では一般にわきがは好まれないが、わきがは一種の性的刺激を与えるものであり、それは哺乳類全般に通じるものを引き継ぐものである。今日のアメリカ人はこの体臭に対してある種の拒否的反応を示し、そのため、わきがを消すデオドラント(脱臭剤)を常用する。哺乳類では体臭は個体性を表すものであったことを考えれば、その常用は無個性化を示唆し、ときには自己存在の否定を意味するといえよう。その裏を返したものが、思春期に多くみられる潔癖症である。この症状は、自分の体臭を周囲の人がしばしば忌み嫌っているように妄想することである。
 注目すべきことは、現代人が糞尿(ふんにょう)のにおいを忌避することである。哺乳類はこれを拒まないどころか、その縄張りのマーキングmarkingとしてこれを用いる。ある研究によれば、人間も、幼時には糞便や汗のにおいをむしろ好ましいにおいと受け止めているのであるが、5歳を過ぎるとこれを拒み始めるという。おそらく、それは、大人の衛生観念が子供のしつけに影響するものと考えられる。日本においても、人糞や畜糞を肥料としていた時代には、農民たちはこれを忌避しなかった。[香原志勢]

においの文化

においは、その個人の趣味、民族の性向をそのまま表現するといってよい。その極致として登場するのが香水、香料である。今日、用いられる香水は2種類に大別できる。一つは性的刺激をもつ体臭を強調するものであって、麝香(じゃこう)はその代表例である。もう一つは花の香りを主体とする一般的な香水である。それは視覚的イメージとしての花の美しさを想起させるものであり、自己の体臭を否定するものであるといえなくもない。体臭の否定は、性の抑圧、あるいは性からの超越を意味するものである。それは無意識の世界への没入につながる。そのように考えると、嗅覚というものは、現代文明のなかにあって重大な意味合いをもつものといえよう。
 現代文明を表象するものとして、アルコール飲料、たばこ、コーヒーなどがあげられる、そのほかチーズ、イースト菌、みそなど、さまざまな食品もある。ゆがんだものの例としてはシンナー、麻薬が登場する。ここで考慮すべきは、日本における茶道、香道であり、それは新しく宗教的雰囲気を醸し出す芸術にまで発展した。それは、とかく抑圧され続けた嗅覚の世界の奥深さを、倫理性、思想性と絡めてさらに発展させたものである。視覚文化、そして論理を基調とする言語文化に疲れた人々、そして、それらに満足のいかぬ人々は、香りをかぐ世界に、一つの救いと安定を求めようとしている。[香原志勢]
『高木貞敬著『嗅覚の話』(岩波新書) ▽D・M・ストダルト著、木村武二・林進訳『哺乳類のにおいと生活』(1980・朝倉書店) ▽ロバート・バートン著、高木貞敬他訳『ニオイの世界 動物のコミュニケーション』(1978・紀伊國屋書店) ▽菊池俊英著『匂いの世界』(1972・みすず書房)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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