改訂新版 世界大百科事典 「六月蜂起」の意味・わかりやすい解説
六月蜂起 (ろくがつほうき)
Journées de juin
1848年6月,フランス第二共和政下にパリで発生した労働者の武装蜂起。二月革命に不安を感じたパリの諸産業が休業状態になり,多くの職種で50~80%の失業率となった。加えて革命当初に政府が約束した労働の組織化をはじめとする社会改革の方向も無視されるに及び,パリの労働者の不満は著しく高まっていた。蜂起の直接のきっかけは,共和政府が国立作業場(アトリエ・ナシヨノー)を解散して,そこで働いていた労働者を地方の土木事業に追いやるか,軍隊に強制的に編入するという方策を決定したことにある。この決定が6月21日に伝えられると,22日にプジョルに率いられた労働者は,公共土木相マリに決定の撤回を要求したが,マリはこれに強硬な態度で臨み,以後市内の要所に群集が結集し始めた。23日パンテオン広場に集まった大群集はバスティーユ広場に移動し,さらに東部地域の労働街を北上してサン・ドニ門に至った。デモ隊はパリの東半分の全域にわたってバリケードを築き,政府軍と衝突した。24日には戒厳令が敷かれ,議会は陸相カベニャックに反乱鎮圧の全権を委任した。この日,フォブール・サンタントアーヌ街の反乱派は第8,9区の区役所を占領し,さらにパリ市庁舎を脅かす勢いだった。25日,戦闘は熾烈を極め,和平の仲介に立ったパリ大司教アフルが銃弾に倒れ,数人の将軍も反乱派に殺された。しかし,蜂起は政府軍の攻撃によって後退し,26日に鎮圧された。逮捕された者は1万2000人弱,嫌疑をかけられた者は裁判にもかけられずアルジェリアに追放され,罪が重いとみなされた者は軍事裁判にかけられた。反乱派の死者は4600人とされるが,逮捕と同時に銃殺された者も多かった。
この蜂起の特徴は,蜂起が各居住街区内の国民軍の間の対立で始まったことにある。つまり同じ地域に住む住民が,秩序を守ろうとする側と反乱にくみした側に分裂し,労働者を主とする反乱派が,他方を圧倒することにより,初めて蜂起が出現したのであった。これは生活圏の内部から発生する民衆蜂起としての特徴をよく示している。この段階を経て蜂起は全般化するが,著名な革命家たちは5月15日の議会侵入の罪で獄中にあり,活躍したのは名もないアジテーターたちであった。彼らは労働者街区の小さなクラブでの議論のなかから生まれてきた人びとであった。さらにこの蜂起には市内の職人的な労働者のみでなく,国民軍の一中隊を組織していた市外ラ・シャペルの北部鉄道会社の機械工集団も中隊ごと参加している。
執筆者:喜安 朗
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報