カラカルパクスタン自治共和国(その他表記)Karakalpakstan

改訂新版 世界大百科事典 の解説

カラカルパクスタン[自治共和国]
Karakalpakstan

中央アジア,ウズベキスタン共和国内の自治共和国。旧ソ連邦のもとではウズベク共和国内のカラカルパク自治共和国であったが,ソ連解体後に現体制に移行,国名も改称した。面積16万5600km2で,ウズベク共和国の西の約3分の1(37%)を占める。人口134万3000(1994)。民族構成はカラカルパク人31.1%,ウズベク人31.5%,カザフ人26.9%,トルクメン人5.4%,ロシア人2.3%,その他2.8%(1979)となっている。主都はヌクスアラル海の南岸に位置し,国土の中央を流れるアム・ダリヤの三角州が国の中央に楔を打ちこんだように広がり,それをはさんで国土の西半分がウスチュルト台地の一部を,また東半分がキジルクム砂漠の一部をなす。全体として国土は乾燥した砂漠状の平原で,標高は75~100mである。気候は大陸性で夏は乾燥して暑く,冬は雪はないが寒い。1月の平均気温は南部で-4.9℃,北部で-7.6℃,7月は,それぞれ28.2℃と26.0℃。年降水量は110mm。産業の中心をなすのは綿花の栽培で,工業面でも搾油や綿花の種子の加工を含めた綿花加工業が中心となっている。その他,南部では牧畜(カラクリ羊,ラクダ)や養蚕,北部では稲作,アラル海沿岸では漁業が行われている。

 カラカルパク人は,ペチェネグ人の後裔と考えられ,その言語カラカルパク語カザフ語ノガイ語と近く,宗教はイスラムである。旧ソ連邦中央アジアの各共和国など(計71万4000人)のほか,アフガニスタンにも少数のカラカルパク人が住む。カラカルパク人がはっきりと文献に姿を現すのは16世紀になってからである。17~18世紀半ばにはカザフ・ハーン国に服属していたが,19世紀初頭にはヒバ・ハーン国に帰属することになる。しかし,1873年にロシアがヒバ・ハーン国を保護国にしたのに伴い,カラカルパク人の多数が住むアム・ダリヤ右岸はロシア領となり,87年,シル・ダリヤ州の一部に編入された。カラカルパク人の少数部分の住むアム・ダリヤ左岸はヒバ・ハーン国の領地として残った。ロシアとヒバに分断されたそれぞれの地域において,植民地的な収奪と封建的な収奪はともに過酷であり,第1次大戦中の1916年,ロシア領中央アジア全体をゆるがした大反乱にはカラカルパク人も参加しているが敗北に終わった。17-20年の革命と内戦の時期には,植民者である都市のロシア人に依拠するソビエト革命派,反革命派,アジア系住民に依拠するバスマチ運動とヒバのハーンの四つ巴の争いが展開されたが,20年にヒバのハーンが打倒されてホラズム人民ソビエト共和国が成立した。また,ジュナイド・ハーン等に率いられたバスマチ運動の執拗な抵抗も30年代初めまでに鎮圧されて,ソビエト革命派の勝利となった。1925年にカラカルパク自治州が設置され,所属をカザフ自治共和国(1925-30),ロシア共和国(1930-36)と替えて,32年に自治共和国に昇格。1936年憲法により所属をウズベク共和国に替えた。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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