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フランスの航海者,探検家。1534年フランス王権としては最初のアジア新航路発見計画に隊長として起用され,北アメリカのセント・ローレンス湾周辺を探検。次いで35-36年にわたり第2次遠征を指揮し,ニューファンドランドが島であることを確認,セント・ローレンス川をケベックおよびモントリオールまでさかのぼって初めて越冬。アジアへの航路発見は不成功だったが,カナダの地にフランスの領有権を宣言した。41年には王権のカナダ植民計画に先発船団の長として参加したが,原住民の敵意や本隊到着の遅れが原因で独断で帰国。植民計画は17世紀初頭まで放棄された。彼の航海記録はフランスとカナダとの最初の接触の貴重な証言である。
執筆者:二宮 敬
カナダ〈建国の父祖〉の一人。ロワー・カナダ出身。法律を学び,1830年代のロワー・カナダの政治の民主化運動に参画。37年にはパピノーの反乱に加担し,敗北を喫してアメリカ合衆国へ逃亡した。48年に政界入りして頭角を現し,57年にはフランス系を代表してJ.A.マクドナルドと共に組閣,連合カナダ植民地政界を左右する存在となった。その結果67年のコンフェデレーションにフランス系カナダ人を統率して参加させることに成功した。建国後初の内閣では国防相(1867-73)をつとめている。〈パシフィック・スキャンダル〉の当事者であったが,問題となった時にはイギリスに行っており,その地で死去した。
執筆者:大原 祐子
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…理論上,パナマ地峡を境に,ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)副王領とペルー副王領が設けられたわけだが,それぞれの首都以外にもアウディエンシアと称する高等司法・行政機関が各地に設けられて直接統治にたずさわったので,それをもとに各地域の行政区画がおのずと成立し,19世紀独立期の共和国成立の基礎条件をかたちづくった。 トルデシーリャス条約成立の時点においては,海外活動に国力を傾けたのはポルトガル,スペイン両国のみであり,フランスのジャック・カルティエのカナダ航海(1534,1535,1541),イギリスのヘンリー7世派遣のジョン・カボットの北アメリカ航海(1497,1498)等を除けば,16世紀前半は,ヨーロッパ諸国は概してアメリカ大陸に対して関心が薄かった。しかし16世紀後半になると,政治的統一期に入ったイギリス,フランス,すこし遅れてオランダなどが,イベリア両国の海外事業に全世界的な干渉を加えるようになり,それらの諸国のアメリカ大陸およびカリブ海地域への割りこみが始まった。…
…洪積世には大陸氷河におおわれていたため,現在小さな氷河湖が散在する。1534年フランス人探検家J.カルティエが訪れ,現在のガスペ市のあたりに大十字架を建て,カナダをフランス領と宣言したといわれる。住民にはフランス系が多い。…
…カナダの場合,その第1はこの地がフランス革命前の封建色濃いフランスの植民地として出発したことに求められよう。
[フランス領時代]
16世紀のジャック・カルティエらフランス人探検家は,すでにスペイン,ポルトガル,イギリスが接触した南方を避け,北方にアジアへの道を探した。カルティエらはその発見には成功しなかったが,溯行したセント・ローレンス川を〈カナダの川〉と呼び,沿岸をフランス王の領土と宣した。…
…同じくカナダの大州であるオンタリオの高い国民所得との格差が問題であったが,近年その差は縮まってきている。 1534年セント・ローレンス川をさかのぼったフランス人J.カルティエは,沿岸をフランス領と宣言したが,恒久的植民地建設は1608年のシャンプランによるケベック要塞を待たねばならず,いわゆる植民者が到来したのはようやく1617年であった。毛皮交易とカトリック布教を支柱とした北アメリカのフランス植民地ニューフランスは,ケベックを中心として拡大した。…
※「カルティエ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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