日本大百科全書(ニッポニカ) 「グレーコワ」の意味・わかりやすい解説
グレーコワ
ぐれーこわ
Ирина НиколаевнаГрекова/Irina Nikolaevna Grekova
(1907―2002)
ロシア(ソ連)の女性作家。本名エレーナ・セルゲーブナ・ベンツェリЕлена Сергеевна Вентцель/Elena Sergeevna Venttsel'。筆名はロシア語の「イグレク」(ラテン文字のYのこと。数学では「未知数」を意味する)から発想されたもので、作品の署名の際に名前のイリーナは普通イニシャルのI(イ)だけで書かれ、「イ・グレーコワ」となる。レーベリ(現エストニアのタリン)生まれ。1929年、レニングラード大学(現ペテルブルグ大学)理学部卒。本職は応用数学を専門とする科学者で、工学博士の学位をもち、長年モスクワの空軍アカデミーおよび運輸工科大学教授を務めた。確率論やゲーム理論など、数学の専門的著作が多数あり、作家として有名になってからも、文学は自分にとってあくまでも「副業」だとみなしている。
作家として認められたのは、1960年代前半に文芸誌『新世界(ノーブイ・ミール)』に短編「守衛所の向こう」(1962)と「美容師」(1963)を発表したときのことで、すでに50代なかばだった。「守衛所の向こう」は科学研究所を舞台に、現代科学と芸術の意味を問い直したもので、これ以後もグレーコワの作品の多くは研究所や大学を舞台に、研究者や教師の生活を題材にし続けた。彼女の作風のもう一つの際だった特色は、女性の視点から、暖かいユーモアとともに日常生活のディテールを見つめていることである。中編『実験中』(1967)はシベリアで軍事目的の実験に従事する研究者の精神的に貧しい生活を批判的に描いたため、ソ連軍を中傷したとして厳しく非難され、長年つとめていた空軍アカデミーを追われることになった。このとき受けた糾弾の体験をもとにした短編が「消えた微笑」(1970執筆、1986発表)である。中編『講座』(1978。邦題『大学教師』)では講座主任交代劇のなかで展開する大学の人間模様を取り上げた。また中編『未亡人の船』(1981)は、戦中・戦後に夫を失いながらも懸命に生きていく女性たちの生活を描いた力作。また、中編『アーニャとマーニャ』(1979)のような児童文学の作品もある。
グレーコワの作品はソ連の現実に対する批判的視点ゆえに、しばしば保守派から攻撃されたが、執筆活動はおおむねソ連の検閲に許される枠内にとどまった。しかし、ペレストロイカ(建て直し)が始まるまで出版できなかった作品も少なくない。たとえば、短編「消えた微笑」(上述)、スターリン時代を扱った短編「人生の主人」(1960執筆、1988発表)や、サイバネティックス(第二次世界大戦後に起こった、機械系、生体系、社会組織における制御と通信・情報伝達の構造を、基本的に同一の方法的視点で研究しようとする科学の新分野。人工頭脳の実現やオートメーションの改良などを目ざす)の迫害を扱った長編『伝説はみずみずしく』(1960年代初頭執筆、1995刊行)などである。
[沼野充義]
『中里迪弥他訳『新しいソビエトの文学第2』(1967・勁草書房)』▽『前田勇訳『現代のロシア文学 第2期第2巻 大学教師』(1988・群像社)』