日本大百科全書(ニッポニカ) 「ロシア文学」の意味・わかりやすい解説
ロシア文学
ろしあぶんがく
11世紀から現代までのほぼ1000年にわたるロシアの文学の歴史は、18世紀初頭のピョートル1世の改革を境に、中世(ロシアでは伝統的に古代とよぶ)と近代に大別される。また、ソビエト政権樹立(1917)後の文学をソビエト文学とよんで、革命前のロシア文学と区別することも行われてきた。しかし、1991年のソ連邦崩壊以後は、社会主義的価値観の喪失による混沌(こんとん)とした世相の「ポスト・ソビエト時代」に入り、文学界もポスト・モダンの傾向が台頭している。
[江川 卓・木村彰一]
ロシア文学の歩み
古代
ロシア文学は、10世紀末、キエフ大公国がギリシア正教を国教と定めたのと前後して、主としてブルガリアから、いわゆる教会スラブ語で書かれたビザンティンの宗教文献の翻訳がもたらされたときに、その成立の可能性を与えられた。教会スラブ語は、当時のロシア語にきわめて近いマケドニアの土語を基礎とする文語で、ロシアに入ってからは世俗的な目的にも用いられ、17世紀までロシア語そのものより優勢であった。
現存する最古の文献である『オストロミール福音(ふくいん)書』の書かれた11世紀中ごろから17世紀末までの約650年間を、一般にロシア文学史では「古代」と名づける。この時期の作品は、概して宗教的ないし教訓的色彩の強いもの、あるいは、なんらかの実用的な目的に奉仕する「社会・政治評論的」傾向のものが大部分を占めている。ただし文字による文学のほかに、純粋に世俗的で芸術的にも優れた口碑文学のジャンルがすでに11世紀以前から豊富に存在していたことは明らかで、「古代」ロシア人の美的欲求は主としてこの口碑によって満たされていたものと思われる。これらのフォークロア作品には、おとぎ話、説話などの散文のジャンルのほかに、儀礼歌、叙情歌などの詩的ジャンルに属するものも豊かで、とくに「ブイリーナ」とよばれる古代英雄叙事詩は芸術的価値も高く、イリヤ・ムーロメッツ、ドブルイニャ・ニキーチチ、ミクーラらの巨人騎士を主人公に、半神話的、半歴史的なロシア人の過去を歌っている。
[江川 卓・木村彰一]
キエフ時代
「キエフ時代」(11~13世紀)は、『ボリスとグレープ伝』『ペチョラのフェオドーシイ伝』などの聖者伝やウラジーミル・モノマフ公の『教訓』を代表とする説教のような純粋に教会的ジャンルの作品のほかに、きわめて独創的な二つの作品、『ロシア年代記』(12世紀初め)と『イーゴリ遠征物語』(1185~1187)とを生んだ。前者はキエフ(現、キーウ)の修道院でつくられたもので、古い口碑を取り入れた部分に高い文学的価値があり、後者(作者不詳)は高度に複雑な文体的技巧を自在に駆使した純世俗的作品で、古代文学の最高位を占める傑作である。ほかに『聖母の責苦めぐり』『地獄にあるアダムよりラザロへの言葉』など、ビザンティン起源の聖書偽典も翻訳の域を越えてロシア文学の源流となった。
こうした水準の高い作品を生み出したキエフ文学の伝統は、13世紀から15世紀末に至るタタールの支配の時代に絶えてしまい、14世紀末からは修辞的技巧だけを極度に重視する内容空疎な聖者伝が主流を占めるようになり、この傾向は次のモスクワ時代(16~17世紀)にも引き継がれる。これと並んでモスクワ国家内部の激しい宗教的、政治的対立を反映する「社会・政治評論的」作品が16世紀の特徴をなす文学現象である。そのなかで16世紀初めのノブゴロドの商人層の考え方を反映した『ドモストロイ』(家庭訓)が独自の価値をもつ。
17世紀に入ると、世紀の初めの「動乱期」によって古いモスクワ的国家機構が根底から揺るがされた結果、文学のなかに新しい要素が現れ始める。たとえば、この世紀後半の「世俗物語」とよばれるジャンルの作品には、宗教的色彩は希薄ないし皆無で、日常的生活情景が描かれ、そのあるものには口碑的要素の浸透が著しく、ときには当時の社会に対する風刺も見られる。また分離派教徒の指導者アバクームは、注目すべき『自伝』(1672~1675)で、自らの生涯を聖者伝の伝統的形式を打破し、しかも生きた口語を用いて赤裸々に描き、宮廷詩人シメオン・ポーロツキーSimeon Polotskii(1629―1680)は、ポーランドないし西欧の影響のもとに、従来みられなかったジャンルである詩や劇の面で数多くの作品を書いた。
[江川 卓・木村彰一]
18世紀
17世紀に始まるロシア社会の世俗化、西欧化、近代化の過程は、ピョートル1世の果断な改革によって急激に促進されたが、それに伴って文学の領域でも古代の文学伝統はほぼ断絶し、西欧の思潮が次々に紹介されて、その影響のもとに純粋に世俗的な近代ロシア文学の伝統がしだいに築き上げられていく。ただしピョートル時代はいわば17世紀の継続で、真の意味の「近代」は1730~1740年代における古典主義の登場とともに開始されるとみるべきである。
古典主義は主としてフランス、一部はドイツの古典主義の影響によって成立したもので、1760年代まで続いたその最盛期には、西欧の模範に倣って悲劇、頌詩(しょうし)、書簡詩、風刺詩などのたぐいが盛んにつくられたが、自国の古代に題材を求めたこと、現実批判の傾向が強かったこと、要するにある程度リアリズムへの志向を示していたことはロシア古典主義の特色として注目に値しよう。代表的作家はカンテミール、トレジャコフスキー、ロモノーソフ、スマローコフの4人であるが、このうちロモノーソフは詩人ないし作詩法学者として優れていたばかりでなく、教会スラブ語とロシア語との区別を初めて明確にすることによって、ロシア文語の発達に極めて重要な貢献をもたらした。ロシア古典主義が最初から内包していたリアリズムの傾向は、プガチョフの乱(1773~1775)によって農奴制に基礎を置く専制政治の矛盾があらわになる1770年代から急に強くなり始める。
劇作家フォンビージンや、18世紀最大の詩人デルジャービンの作品は、形式的には古典主義の枠内にとどまっているが、風刺的要素の導入や、人物の個性的な描写によって古典主義の抽象性や制約性をすでにある程度破っている。また、ノビコフは風刺的ジャーナリズムの諸作品で鋭い現実批判を試みた。1790年代に入ると、西欧市民社会のなかで発生した主情主義の影響が顕著になり始める。この傾向のロシアにおける代表者はカラムジンとラジーシチェフで、カラムジンは『哀れなリーザ』(1792)などの短編で主情主義のヒューマンな人間観を訴え『ロシア国史』でロシア人の民族意識の確立に寄与した。ラジーシチェフの『ペテルブルグからモスクワへの旅』(1790)は封建的人間関係や、農奴制に対する激しい抵抗の姿勢を示している。なお、カラムジンはフランス語法を取り入れた新しい文語を創造し、現代ロシア文章語の基礎を確立した。
[江川 卓・木村彰一]
19世紀初頭から革命まで
19世紀初頭の約30年間には、従来の古典主義、主情主義と並んで新たにロマン主義がおこり、さらに優れたリアリズムの作品も生まれている。ロマン主義には甘美なペシミズムや幻想の世界へのあこがれを歌ったV・A・ジュコフスキーらの「保守的」ロマン主義と、バイロン的な反逆の精神に貫かれたルイレーエフ、キュヘリベーケル、A・I・オドエフスキーらのデカブリスト詩人や初期プーシキンらにみられる「市民的」ロマン主義の二つの流れがみられる。またこの時期のリアリズムの代表者としては、平俗な用語でロシア人の国民的性格を浮き彫りにした寓話(ぐうわ)詩人クルイローフや、同時代人の種々なタイプをみごとに典型化した喜劇『知恵の悲しみ』(1824)の作者グリボエードフらがあげられる。こうしたさまざまな傾向や流派は、1820年代の初めから創作活動を開始した大詩人プーシキンの天才によって、やがてみごとな調和のなかに溶かし込まれ、いわゆる批判的リアリズムの高次の総合に生かされることになる。この総合のうえにたちつつ、韻文小説『エウゲーニー・オネーギン』(1825~1832)、劇詩『ボリス・ゴドゥノフ』(1825)、叙事詩『青銅の騎士』(1833)、散文作品『ベールキン物語』(1830)、『スペードの女王』(1834)、『大尉の娘』(1836)、小悲劇『モーツァルトとサリエリ』『石の客』(ともに1830)など多彩な作品で前人未到の領域を開拓したプーシキンの偉業を待って、ロシア文学は初めてロシア的現実とロシア的典型の独自な表現としての国民文学となった。プーシキンが、その比類ない数多くの叙情詩、叙事詩によって美しく豊かな近代ロシア語を完成させた功績も忘れられない。
プーシキンが1830年代以後初めて開拓した散文の領域では、レールモントフおよびゴーゴリがそのリアリズムを継承。とくにゴーゴリの長編『死せる魂』第一部(1842)、中編『外套(がいとう)』(1842)、レールモントフの『現代の英雄』(1840)はリアリズム小説の直接の源泉となった。レールモントフについては、デカブリスト敗北後の反動的社会状況と相いれなかった彼の立場を反映して、アポロン的なプーシキンに対してロシア文学のディオニソス的伝統の源流をなし、またその詩の独自な音楽性がチュッチェフ、フェート、マイコフらを経て19世紀末の象徴派詩人に至るロシア詩の「純粋芸術」派的潮流に大きな影響を与えたことが見逃せない。ゴーゴリについては、『恐ろしき復讐(ふくしゅう)』(1831)、『ビイ』(1835)などの初期怪奇ものの系列、『狂人日記』(1835)、『鼻』(1836)などの幻想的作品が、リアリズムを超えた文学の可能性を示唆し、世紀末および20世紀文学に直接的な影響を与えたことがあげられる。1830~1840年代にはまた『ロシアの夜』(1844)のA・I・オドエフスキー、農民風詩人コリツォフ、独自の哲学的叙情詩で知られるチュッチェフらが輩出した。
普通「批判的リアリズム」の名でよばれるロシア・リアリズムは、1840年代に競って文壇に出た小説家ツルゲーネフ、ゴンチャロフ、ドストエフスキー(やや遅れてトルストイ)らによって打ち立てられたもので、小説の断然たる優位、社会問題に対する関心、社会の下層に対するヒューマンな同情などを主要な特徴とする。現実の広範かつ忠実な描出とその批判とを文学の本道とした批評家ベリンスキーは、こうした特色をもつリアリズムの成立に多大の影響を及ぼした。彼とともに「革命的民主主義」の先駆的思想家として活動したのがゲルツェンである。また1830~1850年代には、ロシアの民族的独自性を重くみて、ピョートル1世の改革さえも否定するホミャコーフ、K・S・アクサーコフらの「スラブ派」(スラボフィル)と、ロシアの西欧化の促進を主張するチャアダーエフらの「西欧派」(ザーパドニキ)の間に、当時の知識人を二分する大論争が起こった。
1840年代から1870年代にわたる約30年間はリアリズム長編小説の黄金時代で、20世紀世界文学に深刻な影響を与えたドストエフスキーの『罪と罰』(1866)『カラマーゾフの兄弟』(1879~1880)や、リアリズムの一極限を示すトルストイの『戦争と平和』(1863~1869)『アンナ・カレーニナ』(1873~1877)は、すべてこの時期に書かれた。この2人の巨匠によって世界の近代文学はその頂点を極めた観があり、ドストエフスキーの作品はしばしば「現代の予言書」とよばれ、トルストイの作品は方法的にその後の世界文学に計り知れぬ影響を及ぼした。『猟人日記』(1847~1852)で出発したツルゲーネフが『ルージン』(1856)、『その前夜』(1860)、『父と子』(1862)と社会的問題作を次々と発表、ゴンチャロフが『オブローモフ』(1859)で「余計者」の典型を描き出したのもこのころである。また『デカブリストの妻』(1871~1872)、『ロシアは誰(だれ)に住みよいか』(1866~1876)などの長編叙事詩のほか、幾多の叙情詩、叙事詩で市民的精神を鼓吹した詩人N・A・ネクラーソフ、『雷雨』(1859)、『森林』(1871)などでロシアの国民演劇を確立したA・N・オストロフスキーの活躍も特記される。1870年代には『ある町の歴史』(1869~1870)、『ゴロブリョフ家の人々』(1876~1880)で風刺文学に新境地を開いたサルティコフ・シチェドリン、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(1865)、『僧院の人々』(1872)などでストーリーテラーとしての才能を発揮したレスコーフら、異色の作家も出ている。批評の領域では、1860年代には革命的民主主義者チェルヌィシェフスキー、ドブロリューボフが、1870年代には人民主義者N・K・ミハイロフスキー、ピーサレフが出て、ベリンスキーの社会学的批評を発展させ、革命以後も受け継がれた文学批評の傾向と調子を決定した。
長編の全盛時代は1870年代に終わりを告げ、1880年代はガルシン、コロレンコ、チェーホフらに代表される短編の時代である。人民主義運動挫折(ざせつ)の後を受けた「たそがれの時代」の、絶望と懐疑とよりよき未来へのあこがれが彼らの作品に通ずる特徴である。とくにチェーホフは初期のユーモア短編の時代から散文の名手として知られ、『六号室』(1892)、『イオーヌイチ』(1898)、『犬を連れた奥さん』(1899)などの中編では、社会性と芸術性を兼ね備えた独自の文学を創造した。彼は『かもめ』(1896初演)、『三人姉妹』(1901初演)、『桜の園』(1904初演)など、「気分劇」の創始者としても知られ、世界の劇壇に革命的な影響を与えた。
1890年代に入ると文壇はふたたび活気を取り戻す。この時期から20世紀初頭にかけては、リアリストとシンボリストの対立が特徴的である。前者はチェーホフを最後の代表者とする批判的リアリズムの伝統をさらに革命の道に沿って発展させ、『チェルカッシ』(1895)をはじめとするロマン主義的な初期短編、戯曲『どん底』(1902)、長編『母』(1907)、『ざんげ』(1908)、自伝三部作などで新文学の旗手として登場したゴーリキーや、現実に対する関心を多少とも作品に反映させようとした「自然主義者」クプリーンやI・A・ブーニンらであり、後者は文学の社会性を拒否して美や自我の崇拝を唱えたメレシコフスキー、バリモント、ソログープ、レーミゾフ、さらに20世紀に入ってからのブローク、ベールイらである。シンボリズムは1905年以後、約10年にわたって文壇、詩壇の主流をなしたが、この時期にも、たとえばブロークらにはロシアの現実を直視しようとする姿勢がみられる。
1910年代になると、シンボリストの陣営からシンボリズムのもつ過度の観念性に反抗する「アクメイズム」と「未来主義」の二つの流派が現れた。神秘的世界の探究をやめて可視の世界を具象的言語によって描こうとする前者にはグミリョフ、アフマートワ、マンデリシュタームが、詩芸術の極端な無目的性を標榜(ひょうぼう)する後者にはフレーブニコフ、後の革命詩人マヤコフスキーらが属した。
[江川 卓・木村彰一]
ソビエト文学の歩み
1917年の十月革命とそれに続く国内戦の時期に旧文学者のかなりの部分は海外に亡命し、国内にとどまった者も革命に対する態度の決定を迫られ、ソビエト文学は最初からある種の政治的価値判断を含んだ文学として出発した。作家をその出身によってプロレタリア作家、農民作家、旧知識人系の「同伴者作家」等々と区別する習慣も1930年代初めまで続く。またソビエト文学という呼称は、ロシア、ウクライナ、ジョージア(グルジア)など、本来は、ソ連諸民族の多言語文学を一括してとらえようとした概念で、この点にも特殊性がみられる。
[江川 卓]
革命直後
革命直後はいわば詩の時代で、ブロークの長詩『十二』(1918)がソビエト詩の最初の傑作となり、十月革命を「私の革命」として受け入れたマヤコフスキー、扇動詩のベードヌイ、世界革命をロマンティックに歌い上げた「プロレトクリト」「鍛冶屋(クーズニツァ)」系の詩人たちの活躍が目だった。ネップ(1920年代に実施された新経済政策)の時代に入ると、ようやく散文が文学の主流を占め始め、『鉄の流れ』(1924)のセラフィモービチ、『チャパーエフ』(1923)のフールマノフ、『一週間』(1922)のリベジンスキー、『壊滅』(1927)のファデーエフらのプロレタリア文学系作家と、『裸の年』(1921)、『消されない月の話』(1926)のピリニャーク、『装甲列車14-69号』(1922)のV・V・イワーノフ、『騎兵隊』(1926)のバーベリらの同伴者系作家とが、国内戦や革命後の困難な現実に題材をとって、それぞれに作品を競い合う状況が生まれた。ほかに『シネブリューホフ物語』(1922)以後、数々の短編で革命後のソ連の現実を滑稽(こっけい)に風刺したゾシチェンコ、『十二の椅子(いす)』(1928)、『黄金の子牛』(1931)で痛快な風刺画廊をつくりあげたイリフ・ペトロフらの風刺作家、旧知識人系のベールイ、『われら』(1924)で共産主義社会のアンチ・ユートピア像を提出して、オーウェル、オルダス・ハクスリーらに影響を与えたザミャーチン、『悪魔物語』(1924)、『運命の卵』(1924)などで独自の作風を示し、のちに傑作『巨匠とマルガリータ』(1967発表)を書くM・A・ブルガーコフ、『羨望(せんぼう)』(1927)のオレーシャ、『秘められた人間』(1928)、本国では断片的にしか発表されなかった『チェベングール』(1927~1929執筆、1972パリで刊行)のA・P・プラトーノフら、ユニークな作家たちも輩出し、1920年代文学は多彩な顔ぶれに支えられた。詩では、革命直後に劇詩『ミステリヤ・ブッフ』(1918)を発表、その後も長詩『ウラジーミル・イリイチ・レーニン』(1924)、『ハラショー(すばらしい)!』(1927)など精力的な活動を続けたマヤコフスキーと並んで、革命の哀傷を歌った美しい叙情詩人エセーニン、孤高の詩境を開いたパステルナークの名を忘れられない。
[江川 卓]
1920~1930年代
1920年代には文学団体も大幅に認められていて、政治主義的な「ナ・ポストウ」「ラップ(ロシア・プロレタリア作家協会)」のほかに、非政治主義の「セラピオン兄弟」、未来派系の「レフ(芸術左翼戦線)」などが独自の文学的主張を掲げた。党も1925年の中央委決議では「文学における自由競争」の原則を打ち出している。この時期にはまた「オポヤーズ(詩的言語研究会)」を中心に「ロシア・フォルマリズム」とよばれる独自の文芸理論が確立されつつあった。シクロフスキー、エイヘンバウム、ティニャーノフらを中心にしたこの動きは、『ドストエフスキーの創作の諸問題』(1929)を出したバフチンらに受け継がれている。
1930年前後になると、政治、社会情勢の影響もあって、社会主義建設をテーマにしたリアリズム的作品が優位を占めるようになり、その過程でカターエフ、エレンブルグ、フェージン、レオーノフらの同伴者作家と、ショーロホフ、ファデーエフ、N・A・オストロフスキーらのプロレタリア文学系作家との作風がしだいに接近する。この状況を踏まえて、1932年にはソビエト文壇を政治的にリードしていたラップをはじめ全文学団体が党の決議によって解散され、10年ぶりでイタリアから帰国したゴーリキーらの指導下に、1934年のソ連作家同盟設立、基本的創作方法としての「社会主義リアリズム」の承認へと文学界の再編成が進むことになる。この時期の作品としては、エレンブルグの『第二の日』(1934)、ショーロホフの『開かれた処女地』(第一部1932、第二部1960)、オストロフスキーの『鋼鉄はいかに鍛えられたか』(第一部1932、第二部1934)、ゴーリキーの『クリム・サムギンの生涯』(1927~1936刊行)などがある。しかし1930年代後半に入ると、粛清の恐怖のもとで文学への露骨な政治的干渉が行われ、社会主義リアリズムもドグマと化して、創作活動も沈滞し、ショーロホフの『静かなドン』(1928~1940)、A・N・トルストイの『苦悩の中を行く』(1922~1941)の2大作の完成も文学の画一化を救えなかった。第二次世界大戦中、文学はいくぶん活気を取り戻し、祖国防衛を基調にシーモノフ、ワシレフスカヤ、トワルドフスキーらの新人が進出する。しかし終戦直後のいわゆる「ジダーノフ批判」(1946~1948、思想・文化担当書記局員ジダーノフによるイデオロギー引締め政策)は文学をふたたび政治統制の枠にはめ込み、ついには「無葛藤(むかっとう)理論」といった現実美化のえせ理論も生まれた。またスターリン賞の濫発によって文学の価値基準が混乱し、ババエフスキー、ブーベンノフなどの二流作家の作品が祭り上げられる一方で、カターエフ、V・S・グロスマンらの実力ある作家が激しい政治的非難を受けた。
[江川 卓]
「雪どけ」以降
スターリンの死(1953)のころからソビエト文学は「雪どけ」の時代に入る。このことばのもととなったエレンブルグの中編のほかに、オベーチキンらの農村ルポルタージュ、トワルドフスキーの長詩『遠いかなた』(1958~1960)、レオーノフの長編『ロシアの森』(1953)などが文学復興の先駆けをつとめた。パステルナークの長編『ドクトル・ジバゴ』(1957)へのノーベル賞授賞をめぐる動きにみられたように、政治情勢の変化で「雪どけ」は一進一退を繰り返したが、その間にもテンドリャコフ、V・P・ネクラーソフ、バクラーノフらの作家が育ち、1960年代にかけては詩のエフトゥシェンコ、A・A・ボズネセンスキー、散文のアクショーノフらの若手作家が大量に進出して、ソビエト文学にも疎外や世代断絶などの問題が提起された。そのなかでも『イワン・デニソビチの一日』(1962)で、スターリンの強制収容所の内幕を初めて白日のもとにさらし、しかも高度の芸術性を達成したソルジェニツィンの登場の意味は大きかった。しかしそのソルジェニツィンも、『マトリョーナの家』(1963)など二、三の短編を発表できただけで、国内では作品発表の道を閉ざされ、『ガン病棟』(1968)、『煉獄(れんごく)のなかで』(1968)の2長編は海外で刊行された。1973~1975年『収容所群島』をパリで発表、そのかどで1974年強制的に国外退去させられた。このソルジェニツィン追放を契機に、ソ連では反体制的文学者の大量出国の現象が起こる。すでに1972年には後のノーベル賞受賞詩人で、1964年にいわゆる「寄食者」裁判で裁かれたブロツキーが亡命し、1973年には国外で評論や小説をアブラム・テルツの筆名で発表した、文学「密輸」事件で1966年に強制労働7年の刑を受けたシニャフスキーが亡命していたが、1970年代後半にはV・P・ネクラーソフ、マクシーモフ、アクショーノフ、ウラジーモフ、ボイノービチ、ガーリチらが相次いで海外に亡命し、ソビエト国外に現代ロシア文学を考えねばならなくなった。
この間の国内文学では、1974年に夭折(ようせつ)したシュクシンの存在が大きい。民衆の苦渋と断念を独特の「ことば」で表現した短編群は秀逸である。彼の後を受けて、アスターフィエフViktor Astafyev(1924―2001)、ベローフらのいわゆる「農村派」が進出し、『生きよ、そして記憶せよ』(1974)で土着に根ざした新しい文学を拓(ひら)いたV・G・ラスプーチンもこの系統に属する。ほかに歴史ものに新境地をみいだしたオクジャワ、『老人』(1978)、『ある時間、ある所』(1981)など都会ものの問題作を発表し続けたトリーフォノフらが注目された。1985年、ゴルバチョフ政権の登場とともに「ペレストロイカ」(建て直し)「グラスノスチ」(情報公開)の新時代に入り、ソビエト文学は新たな高揚を迎えた。パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』、A・P・プラトーノフの『土台穴』、ザミャーチンの『われら』など、多年禁書扱いになっていた作品が公表され、ルイバコフの『アルバート街の子供たち』(1987)、ビートフの『プーシキン館』(1987)など、長年発表できなかった作品も解禁された。ほかに、元亡命作家アルダーノフの長編『鍵(かぎ)』(1989)、『自殺』(1991)、それよりは一世代若いゴレンシュティンFriedrich Gorenstein(1932―2002)の『贖(あがな)い』(1990)、アンチキリストその人が登場する長編『聖詠』(1992)、いまや中堅作家となったウラジーモフの『忠犬ルスラン』(1989)、『将軍とその軍隊』(1994)、ジノビエフの『恍惚(こうこつ)の高み』(1976、スイス)、サーシャ・ソコロフSasha Sokolov(1943― )の『馬鹿たちの学校』(1989)などが発表された。この時期にはまた、多年アメリカに亡命していたソルジェニツィンが帰国して、『赤い車輪』などもロシア語で刊行された。同様に、アクショーノフも帰国して『クリミア島』『モスクワ伝説』などを発表した。民族文学も活況をみせ、とくにキルギスのアイトマートフの『一世紀より長い一日』(1980)、『処刑台』(1986)、ベラルーシのブイコフの『わざわいの兆(きざし)』(1985)などは長く残る作品だと思われる。
[江川 卓]
ポスト・ソビエト時代の文学状況
1991年にソ連邦が崩壊したのち、ロシアの政治・経済の混迷状況のなかで、文学もまた、一挙に混迷の時期に入った。それは、いままでの伝統的な「分厚い」文芸誌が、軒並み経営危機状態に陥ったことに如実に現れている。ちなみに、ソ連の代表的文芸誌であった『ノーブイ・ミール』は、1990年にソルジェニツィンの小説『煉獄(れんごく)にて』『ガン病棟』を相次いで連載し、266万部という史上最高の発行部数を数えたのをピークに、1991年には95万8000部に減少し、1992年には25万、1993年7万4000と毎年部数を減らし、1997年末には1万5000にまで落ち込んでしまった。生活難のなかで国民の文学離れが進み、作家たちの生活もまた困難になり、文学そのものも衰退した。
[大木昭男]
ロシア・ブッカー賞
そのような状況において、1992年、イギリスのブッカー社によって新たに創設されたロシア・ブッカー賞は、外国資本によって作られた文学賞であり、その賞金が1万2500米ドルということでロシア社会の注目を集めた。その第1回受賞者は、マルク・ハリトーノフМарк Харитонов/Mark Kharitonov(1937― )で、受賞作は彼の長編『運命の線、またはミラシェービチの櫃(ひつ)』(『ドルージバ・ナロードフ』誌所載)であった。また、このとき女流作家のリュドミーラ・ペトルシェーフスカヤLudmilla Petrushevskaya(1938― )の中編『時は夜』(『ノーブイ・ミール』誌)に小ブッカー賞(賞金4000英ポンド)が与えられた。ハリトーノフはソビエト時代にはその作品がほとんど刊行されることがなかった作家で、亡命作家ウラジーミル・ナボコフを初めとするロシア・ポストモダニズムの系譜に連なる作家であり、彼の長編は、「ロシア・ポストモダニズムの古典」となるだろうとみられている。
19世紀に全盛を極めたリアリズムのアンチテーゼのように、シンボリズムやアバンギャルド芸術の諸流派が20世紀初めに現れたと同様に、ソビエト時代に全盛を極めた社会主義リアリズムにとってかわって新たに登場したのが、「ポスト・モダニズム」とよばれる文学潮流であった。それはたちまちポスト・ソビエト時代の、流行の文学現象となっていった。ハリトーノフの小説に関していえば、作中の文芸学者が発見した作家ミラシェービチのテキストのもろもろの断片の解釈を通して、そこに登場する過去の作家の運命を推理し、人間存在について考察していく構成手法を特徴としてもっている。
ロシア・ブッカー賞はその後ロシアでもっとも権威ある文学賞の一つとなり、第2回(1993年度)は、ウラジーミル・マカーニンВладимир Маканин/Vladimir Makanin(1937―2017)の『ラシャで覆われ、真ん中に水差しの置かれた机』(『ズナーミャ』誌)、第3回(1994年度)は、ブラート・オクジャワの『閉鎖された劇場』(『ズナーミャ』誌)、第4回(1995年度)は、ゲオルギイ・ウラジーモフの『将軍と彼の軍隊』(『ズナーミャ』誌)、第5回(1996年度)は、アンドレイ・セルゲーエフАндрей Сергеев/Andrey Sergeev(1933―1998)の『切手アルバム――人々、物、言葉、関係のコレクション、1936年から1956年まで』(『ドルージバ・ナロードフ』誌)、第6回(1997年度)は、アナトーリイ・アゾーリスキイАнатолий Азольский/Anatoliy Azol'skiy(1930―2008)の『檻(おり)』(『ノーブイ・ミール』誌)が、それぞれ受賞した。しかし、西側資本主導によるこの賞への反発も強く、1995年にはロシアの『独立新聞』が自国銀行資本の後援を得て、「アンチブッカー賞」を創設し、その第1回受賞作は、アレクセイ・ワルラーモフАлексей Варламов/Aleksey Varlamov(1967― )の小説『誕生』であった。それは、結婚して12年目にして初めて妊娠した35歳の女性が、早産で生まれ、生死の境をさまよう未熟児の危機的状況を夫と力を合わせて乗り切って育てていく感動的なリアリズム小説である。ただ、ソビエト時代の作品と違うのは、そこに信仰的要素が入っており、しかもそれが作品のキーポイントとなっている点である。これは、ポスト・ソビエト時代に正教信仰が復活し、教会が活発化している現実の反映であろう。
[大木昭男]
ベローフとラスプーチン
1998年になると、8月のロシア金融危機の影響もあって、ロシア・ブッカー賞の存続も財政的な面で危うい情勢となった。イギリスのブッカー社がここにきて、「ブッカー賞」という名だけを残して、ロシア側に財政的な肩代わりを求めてきたからである。
ブッカー賞にノミネートされるような作品はまったく生み出さなかったが、西側文明追随の風潮に抗して、独自の道を歩み続ける民族派系の代表的文芸誌に『ナッシ・ソブレメンニクНаш современник/Nash sovremennik』(発行部数1万5000)がある。ここでの代表的作家は、すでにソビエト時代に「農村派作家」として知られたワシーリイ・ベローフとワレンチン・ラスプーチンである。1920年代末の富農撲滅と農業の集団化運動をテーマとしたベローフの大河小説『大激変の年』第3部が、同誌において1994年の初めに完結をみた。
一方、ラスプーチンは意欲的長編ルポルタージュ『シベリア、シベリア…』(1991)を刊行したのち、1995年に『病院にて』と『あの同じ土の中へ』という二つの短編を同誌に発表した。前者には、回復に向かっていく主人公と同室の入院患者(ソ連時代の党官僚)との対立的な会話を通して現実批判が展開されており、散歩に出た主人公が耳にする教会の鐘の音と修道士ロマーンの歌声に、荒廃したロシアの魂復活への希求が表明されている。後者は、年金生活に入った初老の女性が亡くなった老母の葬式費用がないために森の中に不法に埋葬する話である。翌年春に墓参りに来た主人公は、意外にもその両隣に同じような二つの墓がつくられているのをみる。その一つは、なんと老婆の墓を掘ってくれた男の墓であった。ここには生活に困窮した庶民の悲惨な現実が痛みを込めて描かれている。この短編もまた、宗教的な結末で終わる。すなわち、主人公は教会に立ち寄ってろうそくを3本求め、2本は死者の追善に、1本は主人公の魂の救いのために点(とも)されるのである。この二つの短編は、崩壊後のロシアの現実を鋭く描き出しており、読む者の心を動かさずにはいない。ちなみにラスプーチンはこの2作で、1996年度に新設されたイタリアの国際的文学賞を受けており、さらにその副賞選考のためにモスクワ大学や文学大学の学生たちなど400人の若者たちに人気投票させたところ、ラスプーチンのこれらの短編がイスカンデルの『人間とその周辺』とペトルシェーフスカヤの『最後の人間の舞踏会』に大差をつけて1位となったことが報じられた(『文学新聞』)。
ここ数年間にロシア・マスコミ界の話題作となった小説としては、ウラジーミル・ソローキンVladimir Georgievich Sorokin(1955― )の『ロマン』(1994)や、ビクトル・ペレービンViktor Olegovich Pelevin(1962― )の『チャパーエフと空虚』(1996)などがあるが、話題性はあるにしても、果たしてこれらが後世に残るような作品となるかどうか疑問である。国民の思考・感情に根ざしているという点では、ラスプーチンのような作家のほうが重みがあり、19世紀の黄金時代の伝統を受け継いだそのような文芸流派が、21世紀におけるロシア魂の復活とともに必ずやふたたび栄えるときがくるであろうと思われる。
ラスプーチンは1997年、『ナッシ・ソブレメンニク』誌に「我が宣言」と題するエッセイを発表し、「ロシア人作家にとって、再び民衆のこだまとなるべき時節が到来した」と述べ、文学には、自分の「生まれた土地に徹頭徹尾奉仕する以外にほかの選択はないし、ありえない」と宣言して、その立場から、積極的な創作活動を展開し始めた(1997年の短編『思いがけなく、意外にも』、1998年の『新しい職業』など)。ロシア文学の市民的伝統は、彼のような社会的使命感をもった作家のなかに生きており、そのような創作活動のなかにこそ未来があるだろう。
[大木昭男]
ロシア文学の日本への影響
ロシア文学の日本への紹介は1822年(文政5)ナロードニキ革命家の伝記が『烈女の疑獄』『鬼啾啾(きしゅうしゅう)』として紹介されたときに始まる。その後プーシキンの『大尉の娘』が『花心蝶思録(かしんちょうしろく)』、トルストイの『戦争と平和』が『泣花怨柳(きゅうかえんりゅう)・北欧血戦余塵(よじん)』として部分訳されるが、本格的な紹介は1888年(明治21)長谷川二葉亭(はせがわふたばてい)(二葉亭四迷)によるツルゲーネフの『あひゞき』『めぐりあひ』の訳出であり、これはその文体の新しさで近代日本文学の成立に大きな役割を果たした。1892年には内田魯庵(ろあん)訳でドストエフスキーの『罪と罰』が紹介され、北村透谷(とうこく)、島崎藤村(とうそん)らに深刻な影響を与えた。
明治から大正にかけては、トルストイ、チェーホフ、ゴーリキー、アンドレーエフ、アルツィバーシェフらが精力的に紹介され、ロシア文学は日本でもっとも人気のある外国文学となった。新劇の成立もチェーホフ、ゴーリキーを抜きにしては語れない。昭和に入ると、プロレタリア文学運動がマルクス主義文芸理論に大きな関心を示した。しかしなにより大きかったのは、トルストイと、とくに米川(よねかわ)正夫訳で出たドストエフスキーの影響で、これは小林秀雄、埴谷雄高(はにやゆたか)のみならず、太宰治(だざいおさむ)、椎名麟三(しいなりんぞう)、武田泰淳(たいじゅん)、大江健三郎に至る戦後文学にも顕著に認められる。
ソビエト文学の影響はロシア文学に比べて見劣りし、ショーロホフ、エレンブルグ、アクショーノフ、ソルジェニツィンらの文学がそれぞれの時代に関心をよんだにとどまる。政治的に理解された社会主義リアリズム論の悪影響であろう。そのなかでラスプーチン、アイトマートフらが現代文学で注目されている。
[江川 卓]
『木村彰一・北垣信行・池田健太郎編『世界の文学史5 ロシアの文学』(1966・明治書院)』▽『木村彰一編『ロシア・ソビエト文学』(毎日ライブラリー)』▽『米川正夫著『ロシア文学史』(角川文庫)』▽『金子幸彦著『ロシア文学案内』(岩波文庫)』▽『スローニム著、神西清・池田健太郎訳『ソヴェト文学史』(1976・新潮社)』▽『江川卓著『現代ソビエト文学の世界』(1968・晶文社)』▽『大木昭男著『現代ロシアの文学と社会』(1993・中央大学出版部)』▽『井桁貞義著『現代ロシアの文芸復興』(1996・群像社)』▽『阿部軍治著『ソ連崩壊と文学』(1998・彩流社)』