改訂新版 世界大百科事典 「セイム」の意味・わかりやすい解説
セイム
Sejm
もともとポーランドの身分制議会を意味した語。独立回復後の第1次世界大戦と第2次世界大戦の戦間期には下院を意味する語として使われ,上院(セナトSenat)とともに議会を構成した。第2次世界大戦後社会主義体制のもとでは一院制の議会を,1989年の上院創設後は下院を意味する言葉として使われている。
中世のカトリック世界では,あらゆる国や地域で身分制議会の登場が見られたが,ポーランドもその例外ではなかった。貴族や都市民などの身分形成に聖職者集団の存在が与えた影響,あるいは身分制議会の形成に公会議が与えた影響についてはさまざまな指摘がなされているが,この事実をポーランドの身分制議会について確認することは,今のところむずかしい。その形成過程について,詳しいことがまだよくわかってはいないからである。
ほぼカジミエシュ3世による国内統一が終わる14世紀中ごろにセイムの形成が始まると考えてよい。たとえば1351年,ハンガリー王ルドビクLudwik(1326-82。ハンガリー史ではラヨシュLajos大王。カジミエシュ大王の甥)とともにリトアニア遠征の途上にあったカジミエシュ3世がルブリン郊外の戦陣で病に倒れたとき,騎士動員をうけて従軍していたシュラフタは子どものないカジミエシュ3世のあとルドビクがポーランド王位に就くのを認める決議をしている。このときはカジミエシュ3世が病気から回復して決議は実行されなかったが,〈戦陣セイム〉の慣行はチェルビンスクの特権(1422)やニェシャワの特権(1454)獲得の際にも登場している。シュラフタにとって戦陣は国王と取引をする絶好の場であった。またこのルブリン郊外における〈戦陣セイム〉の例から,ピアスト王朝の断絶によって登場してきたセイムにおける国王選出の慣行が,セイム形成にとって重要な意味をもつことがわかる。
さらに1374年のコシツェの特権によってシュラフタは納税義務を免除されるが,そのため国王は臨時課税のたびにシュラフタの同意を得る必要が出てきた。これもセイム形成にとって重要な意味をもつ慣行である。その最初の例は1404年,ドイツ騎士修道会からドブジン地方を買い取るために行われた臨時課税であった。なお,このとき国王は地方(ジェミア。12世紀中ごろ~14世紀中ごろの〈分裂期〉の小侯国が行政単位として残る)を巡回して地方セイムの同意を取りつけている。地方セイム(セイミク)は小侯国の側近会議がその淵源と考えられているが,14世紀にはビエルコポルスカ,15世紀にはマウォポルスカで地方の全シュラフタに出席が認められた。中流シュラフタの発言権が増大してきたため,従来のように有力なシュラフタが圧倒的な発言権をもっていた地域セイム(ビエルコポルスカ,マウォポルスカの地域単位で召集される),あるいは地域を限定しないまま召集される全国セイムでは決定が下せなくなっていたからである。はるばる開催地に出かけて行く余裕があったのは有力なシュラフタだけであった。こうした地方セイムの優位を決定的にしたのが,臨時課税と騎士動員を地方セイムの決議事項としたニェシャワの特権であった。しかし国王にしてみれば,臨時課税のたびに地方セイムを召集して歩くのはたいへんである。とくにドイツ騎士修道会と十三年戦争(1454-66)が始まると,戦費調達のために臨時課税が頻繁に行われるようになった。
こうして15世紀中ごろに地方セイムの代表を1ヵ所に集めるやり方が登場してくる(必ずしも全国単位に限られず,地域単位の場合もある)。セイム(身分制議会)の構成体の一つ,代議院の登場である。代議院は,もっぱら地方の中流シュラフタの利害を代表していた。なお,国民代表の考え方はまだなく,議員は地方セイムの厳格な指示に縛られていた。また,やはり14世紀中ごろに登場してきた国王会議が15世紀中ごろに制度として形を整えてきた。中流シュラフタと結ぶことで有力なシュラフタの勢力を抑え,王権を強化しようと考えた国王カジミエシュ・ヤギエロンチクKazimierz Jagiellonczyk(1427-92)がこの制度を積極的に活用したからである。彼は地位があまり高くない宮廷役人(中流シュラフタ出身)も国王会議に出席させるようにし,彼らの発言権の強化に努めた。代議院と並んでセイムを構成することになる上院は,この国王会議が再編成されたものである。上院はこうした中流シュラフタ出身の新興のマグナートmagnatの利害をもっぱら代表する機関となった。こうして15世紀末,ポーランドに二院制のセイムが登場してくることになった。なお聖職者は司教が上院に参加する形をとっており,彼らで独自の議院を構成することはなかった。また形式的に都市は1505年まで代表を代議院に送っていたことになっているが,その影響力はほとんどなく無視してよい。
当初セイムは開催地も特定化せず開催時期も定まっていなかったが,1569年のリトアニアとの合同(ルブリン合同)以後はワルシャワで開催されることになり,さらに1673年以後は3回に1回はリトアニアのグロドノで開催されることになった。また1573年の〈ヘンリク条項〉によって2年に1回の召集が国王に義務づけられた(期間は6週間。臨時セイムの場合は2週間)。
なおポーランドのセイムに関しては〈リベルム・ベト(自由な拒否権)〉が有名だが,これは元来すべての身分制議会にあった制度で,ポーランドに独特なものではない。すべての者が武装権をもち,自力救済権を認められている限り決定は全会一致によるしかないからである。ただポーランドの場合,それが18世紀末まで存続しつづけたことに特徴がある。17世紀中ごろになると,セイムは〈リベルム・ベト〉の濫用で機能を停止してしまった。こうした事態に終止符を打とうとしたのが〈四年セイム〉(1788-92)である。〈四年セイム〉は〈リベルム・ベト〉による機能停止を未然に防ぐべく,最初から〈連合(コンフェデラツィア)〉の形をとった。これはセイムの一種と考えることができる制度で,特定の目的実現のためにシュラフタ,都市,聖職者が結成したものである。14~15世紀に盛んに結成されるが,セイムの活動が本格化してくるとともに結成されなくなった。それが17世紀後半になってセイムの機能停止が始まると復活し,もっぱらマグナートが国王と対決するための制度として利用された。〈連合〉がセイムと違っていたのは,個人名を登録することで結成され,決定が多数決によってなされた点である。
執筆者:宮島 直機
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報