日本大百科全書(ニッポニカ) 「シベリア抑留問題」の意味・わかりやすい解説
シベリア抑留問題
しべりあよくりゅうもんだい
第二次世界大戦終結後、当時のソ連占領地区の日本軍人らが、シベリアなどに移送、労働を強いられ、日本への引揚げが大幅に遅れた問題。
[若槻泰雄]
抑留の状況
終戦時点において、満州(中国東北)、北朝鮮、千島、樺太(からふと)(サハリン)などソ連占領地域の在留日本人は、日本政府の推算では272万6000人であった。このうちソ連に抑留された人員の内訳は、関東軍を中心にした軍人・軍属が56万3000人、「満州国」の官吏・協和会役員、朝鮮総督府、樺太庁の官吏などが1万2000人と推定されている。ソ連は1945年(昭和20)8月下旬から1946年6月までの間に、これら日本人を1000名単位の作業大隊に編成し、各地に移送した。地域的にはシベリア47万2000人、外モンゴル1万3000人、中央アジア6万5000人、ヨーロッパ・ロシア2万5000人と推定され、捕虜収容所約1200か所、監獄その他特殊収容所約100か所に分散収容されて、採鉱、採炭、森林伐採、鉄道建設、道路工事など、主として屋外重労働に従事させられた。ソ連は、戦後の荒廃した経済の再建のために、これら日本兵を労働力として使用したのである。第二シベリア鉄道の建設には5万人の日本人が投入されている。このような措置は、日本兵の帰国を約束したポツダム宣言第9項に違反し、1929年ジュネーブで調印された「捕虜の待遇に関する条約」にももとる行為であった。
日本兵たちは、日々の労働にノルマ(労働基準)を課せられ、食糧不足、寒気、劣悪な生活環境のために、病人や死者が続出し、全体で7万人が死亡したと推定されている。このようななかで、抑留初期、望郷の思いを込めて歌われた歌が、抑留者仲間のつくった『異国の丘』(作詞増田幸治(1922―2014)、作曲吉田正(1921―1998))である。この歌は1948年夏、復員兵によって日本国内に紹介され、爆発的に流行した。
1947年初めごろからは、抑留所内で「民主運動」が暴威を振るった。初期には旧日本軍の悪弊を打破するための自発的なものであったが、やがて、ソ連の政治部将校の指導のもとに、ソ連への忠誠を民主主義と称し、これを「学習」して思想改造し、「ソ同盟復興」のために献身的に労働することを目的とする運動となった。この運動のなかで、元憲兵や資産家出身者、ついで反ソ的人物、自由主義者、傍観者、さらには恣意(しい)的に選ばれた「反動分子」を集団的に糾弾する「吊(つる)し上げ」が頻繁に行われた。これは暴力よりも恐ろしいといわれ、多くの抑留者は、この難を免れるため、また、「民主化」しないと帰国を許されないことを恐れて、この運動に参加した。その結果、1949年には、帰還兵たちが舞鶴(まいづる)入港に際し、帰国業務や家族の歓迎を無視し、「米日反動荒れ狂う日本列島へ敵前上陸」を呼号し、赤旗を振り、労働歌を高唱するなどの光景がみられたのである。
[若槻泰雄]
帰還問題
ソ連地区からの抑留者送還は、他地域の送還がほぼ終了した1946年12月の米ソ協定締結後から開始された。協定では毎月5万人を送還することになっていたが、ソ連は、冬季輸送の困難、日本側受入れ準備の不備などを理由として、しばしば中断、延引し、この間、抑留者数をはじめ、捕虜に関するあらゆる情報をまったく流さなかった。このような態度に対して、日本国民さらには国際世論の要請や非難も高まった。1950年4月タス通信は、戦犯や病人など少数者を除く51万人の送還は完了したと声明、これに対し、日本政府はなお約37万人が未帰還であるとして、5月、国連に提訴した。さらに翌1951年2月引揚援護庁は、未帰還者34万0585人、うち生存者7万7637人と発表したが、これについてのソ連の回答はなかった。その後、1953年11月の日ソ赤十字社の協定によって、戦犯として抑留されていた日本人の送還が行われ、さらに日ソ国交回復に関する共同宣言発効後の1956年12月26日、最後の集団帰国者1025人を乗せた興安丸が舞鶴に入港した。しかし行方不明者は多数に上っており、なおかなりの自発的および強制的残留者がいたといわれる。
[若槻泰雄]
「戦没者の遺骨収集の推進に関する法律」(平成28年法律第12号)に基づき、厚生労働省は戦没者の遺骨のDNA鑑定を行っている。シベリアを含む旧ソ連地域で収容した遺骨のうち、2017年(平成29)12月末時点で1094柱の身元を特定した。
また、これとは別に1945年に旧満州で捕らえられた元シベリア抑留兵の生存が2017年に確認され、同年一時帰国した。
2015年(平成27)、シベリア抑留と引揚げに関する資料「舞鶴への生還 1945―1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」(舞鶴引揚記念館所蔵の日記、手紙、絵画など570点にのぼる記録)が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産(現、世界の記憶)に登録された。
[編集部 2019年9月17日]
『高杉一郎著『極光のかげに――シベリア俘虜記』(1950・目黒書店/新潮文庫・冨山房百科文庫・岩波文庫)』▽『厚生省援護局編『引揚げと援護三十年の歩み』(1978・ぎょうせい)』▽『若槻泰雄著『シベリア捕虜収容所』上下(1979・サイマル出版会/1999・明石書店)』