朝鮮史でいう日帝時代(日本帝国主義の支配期,1910-45)に日本が朝鮮に置いた植民地統治機関。1910年8月の日韓併合を契機に韓国統監府と韓国政府の諸機関を統合し,完全なる植民地支配に適するように改編して同年10月に創設された。頂点に位する総督とその補佐役の政務総監の下に,中央には総督官房および総務,内務,度支,農商工,司法の5部を置き,別に所属官署として中枢院,警務総監部,鉄道局,通信局,専売局,印刷局,裁判所等とともに地方の13道(地方行政区)を組み込んだ。発足当初のこの機構はのちに数次の改革を経て,中央は1官房8局に細分拡充され,所属官署も肥大化した。初代総督には陸軍大将寺内正毅が就任し,各部局の長をはじめ重要なポストにはすべて日本人が選任された。各道の長官以下には朝鮮人も任用され,面(村に相当)には官選の面長が置かれたが,中央・地方の実権は日本人官僚の手中にあった。
総督府支配の特徴は,まず第1にそれが非常に軍事的な性格を帯びていたことである。〈朝鮮半島は全く軍営化されたり〉(釈尾東邦《朝鮮併合史》)といわれたように,総督府の設置に先だって新聞が強制廃刊され,集会結社が禁じられ,総督の指揮監督をうける憲兵警察制度が確立された。司法,行政,立法の3権を掌握した総督は陸海軍大将から選任し,天皇に直属し,その任務は〈陸海軍ヲ統率シ及朝鮮防備ノ事ヲ掌(つかさど)ル〉軍事色を前面に掲げたものであった(〈朝鮮駐劄(ちゆうさつ)軍〉の項を参照)。総督は内閣総理大臣を経て上奏し,裁可を受け,その職権または委任によって朝鮮総督府令を発して,これに罰則を付することができ,また法律を要する事項は命令(制令)をもって規定することができるなど,広範な権限を与えられていた。総督府の設置とともに朝鮮社会は永続的な戒厳令下に置かれたようなものであった。その軍事色の度合の強弱から1919年の三・一独立運動までを〈武断政治期〉,その後1920年代を〈文化政治期〉と区分する見解もあるが,支配の軍事的性格が根本から改められたことはなかった。第2の特徴は日本本位の場当り的政策に終始し,朝鮮民衆の生活を破壊し続けたことである。日本国内の米不足を理由に朝鮮産米増殖計画を推進しても,日本農業と競合すると廃止してしまった。また,民族運動が国内に波及することを恐れて朝鮮人の渡航を制限したかと思えば,戦争で日本人労働力が不足すると朝鮮人を強制連行してこれを補おうとした。さらに,侵略戦争を拡大すると,その兵站(へいたん)基地として農業中心の朝鮮社会に軍需工業を引き込んだりもした。戦局が悪化すると,朝鮮人を徹底的に日本人化して協力させるため,皇民化政策によってその民族性を根こそぎ奪おうとまでした。
執筆者:馬渕 貞利
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1910年(明治43)の韓国併合とともに、韓国統監府を改変して同年9月30日公布(施行は10月1日)、設置された日本の朝鮮統治機関。以後1945年(昭和20)8月までの36年間にわたって朝鮮を支配した。長官の朝鮮総督(初代寺内正毅(てらうちまさたけ))は親任の武官で、立法、司法、行政の三権を一手に掌握し、そのうえ軍事権までもっていた。
総督府は総務、内務、度支、農商工、司法の五部からなり、その下に九局が置かれた。さらにこのほかに警務総監部、臨時土地調査局などが設けられた。このなかで猛威を振るったのは憲兵警察であった。軍事警察である憲兵が普通警察を兼ねるこの特殊な治安機構は、朝鮮全土に張り巡らされ、「暴徒ノ討伐」から日本語の普及にまで及ぶ広範な権限をもち、言論、出版、結社の自由は完全に奪われた。さらに支配の基本方針として同化政策がとられ、朝鮮人を日本人化する同化教育が重視された。この強権の下で、朝鮮は日本の原料・食糧供給地、商品販売市場へと再編成されていった。これに対し1919年、朝鮮人は三・一独立運動を展開、民族をあげて抵抗した。そのため日本は支配政策の転換を迫られた。文官総督任用も可とし、憲兵警察を普通警察に改めたが、かえって警察力は増強され、同化政策は強化され、民族分裂政策が追求された。十五年戦争下に入ると、すべての朝鮮人は「人的資源」として徴用され、あらゆる物資は戦力増強のために徴発された。そのため殖産・農林局が廃止され、鉱工・農商局が新設(1943年12月)されるなど、戦時動員体制に対応するように総督府の機構も改変されたが、45年に廃止された。
[宮田節子]
『朝鮮総督府『施政二十五年史』(1935)』▽『山辺健太郎著『日本統治下の朝鮮』(岩波新書)』▽『朴慶植著『日本帝国主義の朝鮮支配』上下(1973・青木書店)』
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韓国統監府を起源とし,1910年(明治43)から第2次大戦終了の45年(昭和20)まで存続した日本の植民地朝鮮統治機関。1910年10月施行の総督府官制により京城(現,ソウル)に設置。総督には陸・海軍大将が任命され天皇に直属,諸般の政務を統轄し法律にかわる総督府令を出す権限などをもった。初代寺内正毅(まさたけ)。政務総監が総督を補佐し,その下に官房と総務・内務・度支(たくし)・農商工・司法の各部がおかれた。憲兵と警察を合体した憲兵警察制度をとり,地方は13道にわけられ,その下に府・郡・面の行政組織がおかれた。初期10年間は武断統治が行われたが,19年(大正8)の3・1運動により統治政策を転換,文化政治とよばれる同化政策を推進。総督任用範囲の拡大(武官でなくとも可),憲兵警察制度の廃止などもあったが,文官が総督となったことはなく,支配は巧妙に強化された。1930年代には兵站(へいたん)基地化政策がとられ,総動員体制の構築と人的・物的資源の収奪が強行された。
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1910年の韓国併合から45年の敗戦まで,日本が朝鮮統治のために設置した行政・官僚機構。日韓保護条約(1905年)によって統監府を設置した日本は,韓国併合を契機に,統監府と韓国政府の諸機関を統合し,勅令第319号によって朝鮮総督府の設置を公布した。朝鮮総督は天皇に直属し,司法,立法,行政の三権を付与された。陸海軍大将から選任され,首相経験者やのちに首相に登用された者も少なくなかった。文官の総督はついに実現しなかった。総督に次ぐ職責は政務総監であり,総督を補佐し,実務を統轄した。総監のもとに,総督官房および総務,内務,農商工,司法,度支の5部,その他の9局および地方行政組織が置かれた。
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