日本大百科全書(ニッポニカ) 「シュペーア」の意味・わかりやすい解説
シュペーア
しゅぺーあ
Albert Speer
(1905―1981)
ナチス・ドイツの政治家。当初一介のナチ党員で建築技師(ベルリン工科大学助手)にすぎなかったが、1934年ニュルンベルクのナチ党大会の巧妙な演出でヒトラーに認められ、1937年ベルリンの都市改造計画を委嘱された。1942年事故死したトット軍需相の後任に任命されると、持ち前のテクノクラートの才能を発揮、軍需生産体制の徹底的な管理化に成功、それまで低調であったドイツの軍需生産を一挙に上昇させ、ドイツの戦争能力拡大に貢献した。戦後ニュルンベルク裁判にかけられ、ナチス犯罪に対する責任を肯定した唯一の被告として注目されたが、1946年禁錮20年の判決を受け、1966年刑期満了で出所した。余生は回想録の執筆で過ごした。
[藤村瞬一]
建築家としてのシュペーア
マンハイムの建築家の家系に育ったシュペーアは、カールスルーエ工業大学、ミュンヘン工業大学に在籍した後、ベルリン工科大学でハインリヒ・テセノウHeinrich Tessenow(1876-1950)のもとで建築を学んだ。1928年、同大学を卒業後、テセノウ研究室の助手となる。1931年、ナチス入党後ヒトラーと知り合い、1934年、ナチスの建築顧問P・L・トローストPaul Ludwig Troost(1879-1934)の死去にともない後任に抜擢される。以後、若い頃に建築家を志したヒトラーに仕え、その野心の実現化を建築家の立場から支援した。テセノウの簡潔性とトローストの古典性を融合した作風に、ヒトラーの巨大志向が加わり、シュペーアは作品のスケールを膨らませていった。
最初に手がけたニュルンベルク郊外のツェッペリン広場でのナチ党大会(1934)では、サーチライトにより、空に向けて無数の光の柱を放つ演出を行い、神秘的な空間は「光の大聖堂」と呼ばれた。これがシュペーアの出世のきっかけとなる。建築としては、長いギャラリーをもつ新官邸(1938、ベルリン)など、ヒトラーの好みを反映した装飾の少ない壮大な新古典主義の設計を行った。
1937年、ベルリンの首都建築総監に任命されたシュペーアは、ベルリンやニュルンベルクにモニュメンタルな都市計画を構想したが、ベルリンの改造計画「ゲルマニア」は、ヒトラーが1925年に描いたスケッチをもとにしていた。都市を貫く南北の「勝利の道」には、巨大なドームをもつ15万人収容の大ホールのほか、官庁街、大企業、ホテル、劇場が並び、高さ117メートルの凱旋門を経て、駅や空港へと続く。シュペーアはローマ帝国にならい、廃墟になったとしても偉大である都市を構想した。退屈で単調との評価もあるが、その平凡さは大衆受けしやすいともいえる。
アウトバーンの建設や都市改造の大プロジェクトは、社会のインフラストラクチャーを蓄積し、国内の労働力を循環させることも意識していた。しかし、第二次世界大戦の激化により都市計画は中止。1942年、シュペーアは軍需大臣兼土木総監になり、戦争に関係ない建設を禁止した。大戦末期、ドイツを破壊するヒトラーの焦土作戦には反対したという。
そのほかの主な建築作品に、ニュルンベルク・スタジアム計画(1936)、パリ万博ドイツ館(1937)、ベルリン南駅(1939)、帝国陸軍局(1942、ベルリン)など。著書に『第三帝国の神殿にて』Erinnerungen(1969)などがある。
[五十嵐太郎]
『品田豊治訳『第三帝国の神殿にて――ナチス軍需相の証言』(中公文庫)』▽『八束はじめ・小山明著『未完の帝国』(1991・福武書店)』▽『東秀紀著『ヒトラーの建築家』(2000・日本放送出版協会)』▽『Matthias SchmidtAlbert Speer; The End of a Myth (1984, St. Martin's Press, New York)』▽『Stephen D. HelmerHitler's Berlin; The Speer Plans for Reshaping the Central City (1985, UMI Research Press, Ann Arbor)』▽『Gitta SerenyAlbert Speer; His Battle with Truth (1995, Knopf, New York)』