ドイツの画家。1950年代のドイツの抽象表現主義絵画を代表する。ハーゲンに生まれ、1932~1935年ドルトムントの工芸学校に学んだ。1950年以降、ボルスの影響の下にレリーフ状の効果をもつ暗く物質的な絵肌を発展させた。その絵肌を彼はしばしば厚紙、布、しわくちゃにした紙などで補強し、そこに裂け目を思わせる条痕(じょうこん)をつくった。彼は「僕は壁と闘うように絵画に立ち向かう。脱出する割れ目をみつけるために」といっている。1952年、ドイツの抽象画家たちがミュンヘンで結成したグループ「Zen(禅)49」に加わる。これは東洋および日本の線の表現やマーク・トビーのホワイト・ペインティングに影響されたグループである。1958~1977年、ハンブルクおよびカールスルーエの美術学校で教鞭(きょうべん)をとる。日本では1959年(昭和34)日本国際美術展で文部大臣賞、1966年東京国際版画ビエンナーレ展で都知事賞を受けた。1997年、パリのジュ・ド・ポーム国立ギャラリーで回顧展が催され、翌1998年ハンブルク美術館などに巡回した。
[野村太郎]
ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)の政治家。西プロイセンのクルムで商人の子に生まれる。第一次世界大戦で志願兵となり、右腕を失う。ハレ、ライプツィヒ、ベルリンの大学で法律と経済を学ぶ。1918年労兵評議会に参加、社会民主党に入る。1920年シュトゥットガルトの党機関紙編集長、1924年ウュルテンベルク州議会議員、1930年国会議員、党左派に属す。ナチス政権下で地下活動に入ったがすぐ捕らえられ、敗戦まで強制収容所を転々とした。戦後西側占領地区で社会民主党再建に努力、共産党との合同に反対、1946年党委員長。1948年重病にもかかわらず制憲評議会に参加、1949年国会議員。ルール地方をめぐる石炭鉄鋼共同体案、アデナウアーの西方への統合政策、欧州防衛共同体案などに、ドイツの再統一を妨げるという理由で強く反対した。
[中川原徳仁]
ドイツの建築家。ブレーメン生まれ。建築の勉学はミュンヘンのティルシュと、ベルリンのシェーファーの指導を受け、1900年から09年までドレスデン高等工業学校の教授となり、のちハンブルク市の建築責任者となった。代表作はハンブルク市勧業館(1913)、続くアーレンスベルガー街の小学校、23年の商業補習学校などで、れんがを主要素材とする彼の厳格で巧みな手法を余すところなく示している。19~23年にはケルン市の都市問題担当の助役となり、公園、林区などの計画を行った。28年の水上飛行機格納庫では、素材処理の新手法をのぞかせている。『建築芸術の原理』『現代煉瓦建築の歴史』などの著書もある。
[長谷川堯]
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1895~1952
ドイツ社会民主党の指導者。経済学者出身で,第一次世界大戦後社会民主党に入り,地方機関紙の編集者,ヴュルテンベルク邦議会議員(1924~31年),国会議員(30~33年)として活躍し,ナチス支配下では43年を除き拘禁される。ナチス崩壊後英米占領地区を中心に社会民主党を再建し党首となり,反共の立場を強めながらも民主主義の実現に努力した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...