スタニスワフアウグストポニャトフスキ(英語表記)Stanisław August Poniatowski

改訂新版 世界大百科事典 の解説

スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ
Stanisław August Poniatowski
生没年:1732-98

ポーランド最後の国王。在位1764-95年。ポレシエ地方(現,白ロシア共和国領)にあったチャルトリスキ家の領地ボウチン(ブジェシチ・リテフスキの近く)に生まれる。父は大貴族サピエハ家の庶子として生まれた。1720年チャルトリスキ家の娘と結婚し,6番目に設けた子どもがスタニスワフである。入念な教育と西欧旅行で啓蒙思想を身につけた。チャルトリスキ家の尽力で55年にリトアニア大侯食膳担当官(勲章に似た意味をもつ名目的な肩書)に任命され,さらに55-56年にはイギリス大使館の書記官となった。57-58年にはポーランド使節としてペテルブルグに滞在し,国王アウグスト3世と結ぶポトツキ家,ラジビウ家(ともに〈共和派〉と呼ばれた)に対抗して,アウグスト3世の廃位と国政改革の実現を計画していたチャルトリスキ家(〈一族〉と呼ばれた)のためにロシアの支持を獲得するのが目的であった。このペテルブルグ滞在中にのちのエカチェリナ2世愛人となったことは有名である。彼女との結婚によってポーランド国王の地位を獲得することを夢想するが,59年にロシア宮廷の陰謀事件にまきこまれて帰国を余儀なくされた。

 しかし64年になって好機がめぐってきた。同年ロシア軍がにらみをきかせるセイムでスタニスワフは国王に選出されるが,それはエカチェリナ2世が彼なら自分の従順な駒として動いてくれると考えたからである。ところが国王に選出されたスタニスワフは,自らの意志で積極的に改革を進めはじめた。65年にはシュラフタの子弟教育を目的とした騎士学校を創設し,またイギリスの《スペクテーター》紙をまねた《モニトル》紙を発刊させて啓蒙思想の普及に努めたりした。さらに66年には王国宰相であったザモイスキAndrzej Zamoyski(1716-92)に命じて〈リベルム・ベト(自由な拒否権)〉の制限を目的とした改革案を準備させた。これに対して〈共和派〉は67年,改革案の実現を阻止すべくラドム連合(コンフェデラツィア)を結成してロシアの介入を要請した。ロシア軍に包囲され,ロシア大使が主宰するセイムで改革案は葬り去られたが,このときロシア大使が反対議員の逮捕,ロシア正教徒に対する平等な権利の賦与強要など,あまりに強引なやり方を採用して〈共和派〉の反発を引き起こした。ロシアの勢力拡大を恐れるフランス,オーストリアの援助もあって,68年に〈共和派〉はポドレ地方(現,ウクライナ共和国領)の小都市バールで再び連合を結成してロシア軍との戦いを開始した。70年にバール連合はスタニスワフの廃位を決議し,翌年にはその誘拐すら試みた。しかし72年に第1回ポーランド分割が起こり,オーストリアがロシアにくみしたことを知ってバール連合は解散した。スタニスワフは分割の不法さを西欧列強に訴えて介入を要請したが,73年に召集されたセイムで分割の事実は承認されてしまった。スタニスワフも最終的に分割を承認するが,それはロシアの保障によって,いっそうの分割を阻止できると考えたからである。ロシアは近代的な教育制度の確立を目的とした国民教育委員会の設立,あるいは近代的な内閣制度に似た常設会議の設立などに同意するが,それはロシアとしてもそれなりに近代化され中央集権化されたポーランドを同盟国としてもつことを有利と判断したからであった。〈共和派〉と〈一族〉の対立も世代の交代で収まり,スタニスワフの統治に初めて平穏な時期が到来した。

 87年になって露土戦争が始まり,スタニスワフがロシア,オーストリアにくみして参戦することで発言権を確保しようと計画するにおよんで,かつて〈共和派〉〈一族〉として対立していたマグナート(有力なシュラフタ)の勢力がこぞってセイムでロシアとの同盟に反対の声を上げるようになった。彼らは88年,セイムを連合に切り換え(〈四年セイム〉の成立),89年には常設会議を廃止してセイムによる直接統治を開始した。こうなるとスタニスワフはロシアの期待に反してセイムと対決することを避け,むしろプロイセンと90年に同盟を結んでセイムの改革運動に積極的に協力するようになり,また,コウォンタイらと協力して91年には〈五月三日憲法〉を成立させた。

 92年に露土戦争が終結し,ロシアの支援が期待できるようになった保守派(タルゴビツァ派)はペテルブルグで連合を結成した。攻め入ってきたロシア軍の圧倒的な優勢をまえにしてスタニスワフはエカチェリナ2世の要求に従うほかなく,国王みずからがタルゴビツァ派に参加することで〈四年セイム〉による改革運動に終止符が打たれた。タルゴビツァ派の期待に反して彼らの存在は無視され,93年には2回目のポーランド分割が実施され,もはやポーランドは国家としての機能を失った。国王に代わってロシア大使が事実上の支配者となり,94年のコシチューシュコ蜂起のときもスタニスワフは傍観者以上の役割を果たせなかった。蜂起敗北後はエカチェリナ2世の命令でグロドノに軟禁され,95年の第3回分割でポーランドが消滅したあと退位した。96年にエカチェリナ2世に代わったパーベル1世の招きでペテルブルグに居を移し,そこで余生を送った。
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百科事典マイペディア の解説

スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ

ポーランド最後の王(在位1764年―1795年)。ポニャトフスキ伯の子。ロシア女帝エカチェリナ2世の後援で即位。第1次ポーランド分割後の国政改革もむなしく,1795年,全領土の最終的分割を強要され退位。

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