改訂新版 世界大百科事典 「エカチェリナ2世」の意味・わかりやすい解説
エカチェリナ[2世]
Ekaterina II Alekseevna
生没年:1729-96
ロシアの女帝。在位1762-96年。〈大帝〉とよばれる。ドイツのアンハルト・ツェルプスト公家に生まれ,1745年ロシア皇太子ピョートル(3世)に嫁し,62年宮廷革命で即位した。若いころからの派手な愛情生活で知られ,34年の在位中も近衛士官で宮廷革命の功労者オルロフG.G.Orlovをはじめ10人の公式の愛人をもったが,彼らに政治をまかせることはなかった。即位直後,外交官出身の有力政治家パーニンN.I.Panin伯が常設の諮問機関の設置を示唆したが,君主専制を志向する女帝はこれを退けた。女帝は賢明で意志的で,同時に野心的で虚栄心も強く,即位前から啓蒙思想を学び,ボルテールなどとも文通して啓蒙君主として有名になった。67年国民各層(農奴を除く)の代表数百人からなる法典編纂委員会を設け,これに,モンテスキューの《法の精神》などをもとに執筆した〈訓令(ナカースNakaz)〉を与え,法治主義の原則を説いたが,委員会は具体的成果を生まず,女帝自身にも代議制実施の意図はなかった。女帝は官僚的絶対主義を理想としたが,プガチョフの乱ののち,75年の地方改革である程度の地方分権と貴族中心の地方自治を導入し,85年には貴族と都市に特権認可状を与え,貴族の諸特権と身分的自治,都市のギルド制と自治を認めた。しかし農民,とくに貴族領農民(農奴)の地位は改善されずにむしろ劣悪化し,女帝自身寵臣への土地賜与で農奴を急増させた。女帝は農業を重視して自由経済協会をつくり(1765),土地測量を行い,商工業については営業の自由を原則とした。外政ではポーランド分割と2度の露土戦争で西方と南方に大きく領土を広げたが,ウクライナと黒海北岸はルミャンツェフP.A.Rumyantsev総督とポチョムキンによってロシア化と開発・植民が進められ,黒海はウシャコフF.F.Ushakov提督などの働きでロシアの内海化した。女帝はシベリア・極東にも注意をはらい,92年にはA.ラクスマンが女帝の親書をたずさえて根室に来航した。女帝はラスコーリニキ(分離派)や異教徒に寛容政策をとり,病院・孤児院を設け,セルビア人教育家ヤンコビチF.I.Yankovich de Mirievoを招いて教育計画をつくらせた。また首都ペテルブルグを西欧風の近代都市として整備し,1776年〈ボリショイ劇場〉をつくり,エルミタージュ美術館のもとをおき,文芸・出版を奨励して自らも筆をとった。しかしフランス革命勃発後はラジーシチェフ,ノビコフらを迫害し,対外的にも対仏大同盟に参加した。家庭的には,皇太子パーベルとの関係が悪く,孫のアレクサンドル(1世)を偏愛した。
→ロシア帝国
執筆者:鳥山 成人
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報