日本大百科全書(ニッポニカ) 「スペイン社会労働党」の意味・わかりやすい解説
スペイン社会労働党
すぺいんしゃかいろうどうとう
Partido Socialista Obrero Español
1879年、イグレシアスPablo Iglesias(1850―1925)を党首として創立。別称スペイン社会党(スペイン社会主義労働者党ともよばれる)。1888年創立の労働者総同盟とともに労働者の政治運動組織として発展し、1910年に初めて国会に議員を送った。第一次世界大戦後、コミンテルン(第三インターナショナル)加盟をめぐって動揺、一部がスペイン共産党を結成した。プリモ・デ・リベラ独裁体制に協力したことからほかの左派勢力に批判されたが、独裁体制後期には共和主義運動と協力、31年の第二共和国成立とともに政権に加わった。同年の選挙で第一党となり、共和主義左派とともに諸改革を行ったが、最大の課題であった農地改革に失敗したことで傘下の農民を失望させた。また、左右・中央派の対立も顕著となり、左派は社会主義の即時実現を主張するようになった。
1934年には「労働者同盟」を推進、同年の「10月闘争」ではアストゥリアス・コミューン(アストゥリアスの鉱山労働者による武装蜂起(ほうき)におけるコミューン)の一翼をなした。36年の人民戦線連合に加わり、人民戦線連合が選挙に勝利すると政府に協力した。36~39年の内戦では、左派のラルゴ・カバリェロ、のちに中央派のネグリンが共和国政府首相となり、戦争遂行と諸改革を行ったが、各派の対立も続いた。
内戦敗北後、多くの党員が亡命し、反フランコ独裁闘争において連合国に期待したが、それが果たされないまま有効な対応策を打ち出せなかった。1950年代末に国内活動が再建され、60年代には労働運動に地歩を築いたが、国外指導部と国内活動家の反目が続いた。74年に国内派の若いゴンサレスが書記長となり、穏健路線に基づいた反独裁闘争を展開、フランコ体制崩壊後の77年に合法化された。77年と79年の総選挙で「民主的対案」を掲げて中道政党に肉迫、82年の総選挙で国会議席の過半数を制して政権を獲得した。社会労働党政権は、社会保障の強化、地域分権、EC加盟などを実現した。また、NATO(北大西洋条約機構)脱退から残留へ方針を転換した。他方で、産業再編成政策は労働者の不満を高め、また政権に絡む汚職事件も目だった。これらの「失点」により、96年には、アスナールの指導のもと従来の右翼政党のイメージを払拭(ふっしょく)し中道政党として確立した保守派のスペイン国民党に政権を明け渡した。2000年の総選挙でも敗れて新書記長にサパテロを選出、ゴンサレスは役職を退いた。2003年3月にアメリカ、イギリス軍がイラク攻撃を開始してイラク戦争が始まったが、アスナール国民党政権はヨーロッパのなかではいち早く両国を支持する立場を表明、イラク復興にも積極的に派兵を行った。しかしイラク情勢の混迷は続き、2004年3月にはマドリードで大規模な爆弾テロが発生、200人近い死者がでた。イスラム原理主義テロ組織、アルカイダの関与が疑われるなど世論が大きく動くなか、同月に行われた総選挙で勝利、8年ぶりに政権を奪取した。サパテロは、国連がイラクで中心的な役割を果たさないかぎりスペイン軍を撤退させることを表明している。
[深澤安博]
『戸門一衛著『スペインの実験――社会労働党政権の12年』(1994・朝日新聞社)』▽『楠貞義、R・タマメス、戸門一衛、深澤安博著『スペイン現代史――模索と挑戦の120年間』(1999・大修館書店)』