中世末期以降のヨーロッパ諸国において、身分制社会を土台とし、身分別に編成された議会をさし、近代的民主制国家が成立し、人民主権の原則にたつ代議制議会にとってかわられるまで続いた。等族会議ともいう。
[平城照介]
身分制議会としては、イギリスのパーラメント、フランスの三部会、ドイツ(神聖ローマ帝国)の帝国議会や各領邦国家における領邦議会、スペインのコルテス、ロシアのゼムスキー・ソボール(全国会議)などがあげられる。身分制議会には、フランスの三部会やドイツの帝国議会と領邦議会の大部分のように、聖職者、貴族、市民の三部会制をとるタイプと、ハンガリーや北欧諸国のように、高級聖職者および大貴族の上院と、騎士身分の下級貴族および市民で構成される下院という二院制をとるタイプとに区別される。イギリスのパーラメントは二院型であるが、下院の構成員(いわゆる庶民Commons)は早くから各州の代表という性格をもち、厳密にいうと身分制議会というよりは、近代的代議制議会への移行型という特徴を有していた。またオーストリアのチロールの領邦議会のように、農民代表の出席を認めた例外的ケースもある。
[平城照介]
身分制議会の起源は、封建国家において国王の招集する宮廷会議にある。封建制度の下で国王の直属封臣は、国王に対し「助言と援助」の義務を負っていた。具体的にいえば、「助言」とは国王の招集に応じて会議に出席し、諮問に答える義務を意味し、「援助」とは軍役奉仕のほか、国王が要求する援助金(タイユ)を提供する義務を意味した。ただこの段階では、まだ国王は宮廷会議の招集を義務づけられておらず、会議の構成員も一定ではなく、国王はそのつど必要と考える者を招集したにすぎない。中世後期のヨーロッパ諸国では、王権の強化・上昇という現象が認められるが、それは国王の任務の増大を伴い、その遂行を可能とする財政を確立することが必要となってきた。封建制の原則では、国王の財政は主として王領地収入によってまかなわれ、それ以外には前述の援助金に頼るより方法がなかったが、13世紀末以降、公共のことに関係する問題については、国王は王領地収入以外に一般的課税によることができるという原則がしだいに認められるようになった。しかし他方、「すべての人に関係することは、すべての人によって承認されねばならぬ」という封建的法観念も根強く残っていたので、国王は課税のたびに、直接課税対象となる直属封臣や都市などの承認を獲得せねばならなかった。この課税承認を契機として、国王の諮問機関にすぎなかった宮廷会議は、しだいに会議体としての組織を整え、市民の代表をも加えた、封建諸身分の会議へと発展し、王権の側でも個別的折衝によって課税の承認を獲得するより、会議に諮るほうが便宜であったため、必要に応じてこのような会議を招集することが慣行となり、中世末期以降、身分制議会は国制のなかに確固とした根を下ろし、封建国家は身分制国家へと転換するに至った。
[平城照介]
一般にヨーロッパにおける近代以前の国家は、封建国家、身分制国家、絶対主義の国家という三段階を経過して発展したといわれる。身分制議会自体は、封建国家の末期から絶対主義時代に至るまで存続したのであるが、それが政治的にもっとも重要な機能を果たしたのは、身分制国家においてである。身分制議会の主要な機能は課税承認権であったが、諸身分は課税の承認と引き換えに、身分的特権の拡大を要求することがしばしば行われ、議会は王権の利害と諸身分の利害との角逐の場の観を呈した。さらに諸身分は国事全般への発言権を絶えず拡大しようと努めたので、王権の恣意(しい)を制限し、拘束するという機能を果たした。たとえば、君主家門の内紛、君主の子女の結婚などは、本来は君主の家の私事に属する事柄であったが、他面これは領土の変更などを引き起こす可能性を含む事柄でもあり、そのため身分制議会の介入や承認を必要とするという慣行が確立していった結果、国家の公的性格が明確化していくという結果をも生んだ。もちろん身分制議会は、代議制議会のように全国民の利害を代表したわけではなく、あくまでも諸身分の利害を反映したにすぎず、しかも異なった身分間の利害はかならずしも一致していなかったので、国王はそれを利用して身分制議会の政治的拘束力を排除することが可能であり、それに成功した例もまれではなかった。そこに身分制議会の内包する限界があったわけである。
[平城照介]
絶対主義の国家が成立し、君主が恒常的租税の導入と常備軍の設置に成功した結果、身分制議会の政治的機能は大幅に後退し、議会も招集されることがまれになるか、フランスの全国三部会のように、まったく招集されないという事態さえ生じた。絶対主義absolutismの君主権力の特徴を「法の拘束から解き放されている」Ab solutus regibusと表現するときの「法の拘束」とは、身分制議会による王権の政治的拘束を意味していたのである。
[平城照介]
中世後期のヨーロッパ諸国で,身分制社会を土台に成立した議会。等族議会ともいう。近代の議会が国民代表機関の性格をもつのに対し,この時期の議会は特権的な社会層たる諸身分(等族Stände,états)の利害を表現している。聖職者身分,貴族身分および第三身分(市民と農民の総称で,実際上は都市の代表)の3者で構成されるフランスの三部会は最も有名な例であるが,中世末から17~18世紀のドイツ諸邦にも,聖職者,貴族,市民の三部会制をとる議会が多くみられる。しかし,こうした三部会型とならんで,二院型の身分制議会もあり,この場合には,ハンガリーや北欧諸国の議会のように,上院は高級聖職者と大貴族,下院は下級貴族(騎士身分)と市民から構成されることが多い。中世末期のイギリス議会もこの二院型に含められようが,イギリスでは諸身分間の隔壁がさほど強固でなく,下院を構成する〈庶民Commons〉はかなり早く各州の代表という性格を帯びるようになったから,これを身分制議会と規定することは困難である。宗教改革が行われた国の身分制議会では,当然,聖職者身分の部会は廃止された。なお,特殊な例では,16世紀から18世紀末までのビュルテンベルク公国の領邦議会のように,市民身分のみから成っているものもあった。
身分制議会は君主によって召集されるのを常とするが,戦争などの緊急事態に際して臨時の援助金を徴収する必要がある場合に召集されるのがしばしばであった。中世では,君主がその直轄領収入や関税のような経常収入以外に,国内の教会財産や貴族の所領,自治都市から税金を取り立てることは許されず,臨時の援助金を要求する場合にも,そのつど諸身分を召集して,金額や期間,用途などにつき,彼らの同意を得なければならなかったのである。このいわゆる〈課税承認権〉が,一般に,身分制議会の最も重要な権利である。君主が常備軍の設置と恒常的租税の導入に成功したのちには,それゆえ,身分制議会の政治的な力は弱まり,しばしば召集されなくなる。
課税承認権のほか,君主家門の内紛,未成年の君主の即位,また国土の分割や宗教問題なども,身分制議会召集の動機となりえた。議会は君主と諸身分との政治的なかけひきの場であり,諸身分は課税の承認と引換えに,請願の処理や自己の特権の拡大を要求することが多かった。しかし,三部会型の議会では,各部会の利害が一致せず,君主側がこれに乗じて諸身分の政治的影響力を排除する場合も少なくない。身分制議会の議決は,君主と諸身分との協約という形をとり,国法としての効力をもった。身分制議会の力が弱まり機能を失うことは,ふつう絶対王政の成立の目印とされるが,身分制社会そのものはこれ以後も存続する。例えばフランスでは,17世紀初頭以来全国三部会États générauxの召集が停止されても,いくつかの州では地方三部会États provinciauxが革命まで機能し続けていた。
→身分制国家
執筆者:成瀬 治
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身分別議会,等族会議とも呼ばれる(イギリスにはこの概念はない)。中世後・末期のイングランド議会,フランスの全国三部会(1302~1614年)と地方三部会(14~15世紀),ドイツ諸領邦の領邦議会,カスティリャ,アラゴンのコルテス,ロシアのゼムスキー・サボール(16~17世紀)など,一般に絶対王政に先行して形成された国制的合議機関。近代的国民議会と異なり,ふつう高位聖職者,高級貴族,都市代表者により構成され,国王の必要に応じて開催,国王課税の協賛を主要機能とした。国内行政,外交問題の諮問にも参与したが,立法機能はイングランドを除き薄弱で,請願にとどまった。絶対王政期に入り全国的行政機構,租税収取体系の形成とともに変質,衰退ないし消滅した。身分制議会は国王と一見協約関係に立つが,独立の権力主体ではなく,議会の開催・運営権は原則として国王側に掌握され,その制度的前身である封建会議とは機能的に異質である。それは商品経済の展開による市民層の台頭,封建貴族権力の弱体化と権力の国家的一元化の状況に対応して形成された。聖俗封建貴族を新たに「地方」の農村代表に転化させて,錯雑した封関係の整序による全国統一を促進し,絶対主義国家を準備した。ドイツではこの時代の国家を身分制国家と呼んでいる。
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…イギリスではParliament,アメリカではCongress,フランスではChambre,ドイツではVolksvertretungという。
【身分代表から国民代表へ】
合議体による政治決定という方式そのものの歴史はきわめて古く,部族社会の民会にまでさかのぼるが,近代議会の成立に重要なかかわりをもつのは中世身分制議会である。とくに近代議会発展史において他国に先がけた道をあゆんだイギリスでは,1965年に議会700年祭を祝ったことにもあらわれているように,中世身分制議会の伝統をひきつぎ,その発展という形で近代議会史がくりひろげられてきた。…
…しかし,その意味は,国民代表制を支える原理と歴史の展開とともに変化しており,単純ではない。 近代市民革命前のヨーロッパの身分制議会(等族会議)においては,僧侶,貴族,庶民の3身分の代表者がそれぞれの部会をもち,議員は各地域で身分ごとに選挙されていた。議員は,選挙母体の訓令に拘束され,これに違反した場合には罷免されることになっていた(命令的委任)。…
…もともとポーランドの身分制議会を意味した語。独立回復後の第1次世界大戦と第2次世界大戦の戦間期には下院を意味する語として使われ,上院(セナトSenat)とともに議会を構成した。…
※「身分制議会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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