一般に君主の最高諮問機関の名称として用いられる。君主の任命する枢密顧問官の合議体で,絶対君主制のもとで重要な役割を果たしたが,議会の勢力が強まり,これに対応して内閣制度が確立すると,その役割は低下する。日本の場合,枢密院は官僚勢力の牙城で,しかも比較的早くから政党が内閣をにぎりはじめたため,これと対抗し牽制する役割を担い,長く活動を続けた。中国では五代以来,おもに軍政を担当する官庁の名称である。
日本の枢密院は,1888年4月に枢密院官制によって設置され,〈元勲及練達ノ人ヲ選ミ〉〈天皇親臨シテ重要ノ国務ヲ諮詢スル所〉とされた。大日本帝国憲法でも国務大臣とならべて枢密顧問官が規定された。枢密院は議長,副議長,顧問官,書記官長らによって構成された。顧問官には大臣,元老院議長,大審院長,大公使,参謀総長,植民地長官,行政裁判所長官,貴衆両院議長等の経歴をもつ者が任命され,大正中期まではほぼ首相経歴者が議長の任にあった。枢密院は天皇の諮詢によって活動を開始し,原則としてまず議案の審査報告をつくり,これを配付したのち天皇親臨の本会議が開かれ,各大臣も職権上顧問官としてこれに参列し表決にも加わった。そのため顧問官の数は重要で,当初の12名が1890年に25名に増加された。院議は天皇に上奏され,天皇の意志で採否が決せられた。議案の審査には書記官長または精査委員会があたったので,書記官長の役割は重要であった。初代書記官長は井上毅で,伊東巳代治,平田東助らが続いた。枢密院への諮詢事項のおもなものは帝国憲法と予算に関する疑義,外国との条約・約束,戒厳宣告,緊急勅令・緊急財政処分等で,議会の審議外にする大権事項のうち重要な国務をとくに枢密院に諮詢してその意見を求める仕組みであった。のち政党が進出すると,諮詢事項が拡大され,内閣とくに政党内閣の民主的政策や国際協調外交を牽制することに活動の重点がおかれるようになる。
枢密院は当初まず欽定憲法である帝国憲法草案の審議にあたった。続いて議会開設後に予想される藩閥内閣と民党との間の憲法争議にあたって大権中心の〈憲法の番人〉となることが期待され,初期議会での予算審議権等に関する紛議でその役割を果たした。1898年に大隈重信,板垣退助の憲政党内閣ができたあと第2次山県有朋内閣は文官任用令等を改正して政党の官界進出を封じたが,1900年には天皇の御沙汰書によって枢密院への諮詢事項を拡大し,内閣各省,台湾総督府の官制,官吏制度と教育制度の基礎に関する勅令を加えた。異例のやり方で政党が内閣をとっても,これらの制度をすぐには改正できないようにしたのである。03年には伊藤博文が政友会総裁をやめさせられて枢密院議長に押し込まれたが,09年からは山県が22年の死にいたるまで議長の職を独占し,顧問官をその輩下で固めた。枢密院は外交に関しても強力な発言権をもったが,1917年に天皇直隷の臨時外交調査委員会がおかれると,伊東,平田,牧野伸顕の3顧問官が政党総裁らとともに委員となった。山県の死後には枢密院は国権主義的な立場からワシントン体制下の国際協調外交,とりわけ対中国協調外交を批判した。22年には満鉄付属地以外の在中国郵便局の閉鎖を決めた日中郵便協定の調印後の諮詢を不当として弾劾上奏し,時の加藤友三郎内閣と衝突した。清浦奎吾議長の首相就任後,元老西園寺公望は浜尾新らの学者を後任議長に任命するなど枢密院の政治色を薄めようとしたが,伊東,平沼騏一郎らの顧問官が1916年から34年まで在職した二上兵治(ふたがみひようじ)書記官長と結んで実権をにぎり,政党内閣とくに憲政会=民政党内閣を苦しめた。1925年の普通選挙法の制定にあたっては治安維持法との抱合せをはかり,27年の金融恐慌では台湾銀行救済の緊急勅令案を否決して若槻礼次郎憲政会内閣を倒し,30年のロンドン海軍条約の審議では統帥権問題で浜口雄幸民政党内閣を攻撃して政党政治を動揺させた。枢密院の政党政治と協調外交への攻撃は,満州事変以後の軍部,官僚,右翼の進出に道を開いた。だが戦時体制にはいると,枢密院議長は重臣のひとりとして重要な役割をもったものの,枢密院の発言権はかえって後退した。第2次世界大戦後,日本国憲法の施行(1947)によって廃止された。
執筆者:今井 清一
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明治憲法体制下の国政に関する天皇の最高諮問機関。1888年(明治21)大日本帝国憲法草案審議などのために創設され、翌年発布の明治憲法第56条で「枢密院官制ノ定ムル所ニ依(よ)リ天皇ノ諮詢(しじゅん)ニ応(こた)ヘ重要ノ国務ヲ審議ス」と規定された。創設者伊藤博文(ひろぶみ)らの意図は、議会開設後に予想される政府=藩閥官僚と、議会=政党との対立、紛議の調停者として枢密院を機能させることにあった。構成は議長、副議長、顧問官、書記官長、書記からなり、内閣総理大臣、国務各大臣および丁年に達した親王は会議に出席し評決に加わることができた。顧問官は12名以上とされたが、1890年には25名となり、1913年(大正2)以来24名となった。顧問官は「元勲及ヒ錬達(れんたつ)ノ人」とされたが、多くは官僚が任命された。諮問事項は枢密院官制第6条で、(1)憲法および憲法付属法令の改正案、(2)重要な勅令、(3)外国との条約および行政組織計画、(4)その他とくに諮問された事項、などとされた。会議は天皇の諮問をまって開かれ、審査委員会で審議し、審査報告書を本会議に提出し、審議のうえ決定し、天皇に上奏した。その後1900年(明治33)に山県有朋(やまがたありとも)内閣は政党勢力の官僚機構への侵食を防ぐため御沙汰(ごさた)書をもって、諮問事項に内閣各省官制、文官任用令など官僚組織に関する勅令および教育に関する勅令などを加えて、枢密院の権限を強化して官僚の牙城(がじょう)とした。
枢密院は「施政ニ干与スルコト」を禁じられていたにもかかわらず、政党内閣が出現すると、政府の法案に意見を付け加えたり、異なった決定をすることにより政府と対立した。1925年(大正14)の普選法制定に際しては治安維持法との抱き合わせを図り、27年(昭和2)には台湾銀行救済の緊急勅令を否決して若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣を倒し、30年のロンドン軍縮条約批准に際しては浜口雄幸(おさち)内閣を攻撃するなど、きわめて政治的な役割を果たした。31年の満州事変以後、政党勢力が後退するとその役割は低下した。第二次世界大戦敗戦後の47年(昭和22)日本国憲法施行に伴って廃止された。
[由井正臣]
『美濃部達吉著『枢密院論』(『現代憲政評論』所収・1930・岩波書店)』▽『朝日新聞政治経済部編『枢密院問題』(『朝日政治経済叢書5』1930・朝日新聞社)』▽『諸橋譲著『明治憲法と枢密院制』(1964・芦書房)』
イギリスの行政・司法機関。ノルマン朝以来イギリスには国王の政治上の諮問機関として全貴族の封臣会議があったが、全員が招集されるのはごく重要な国事の相談の場合だけで、日常の問題はそのうちの少数の側近貴族との相談で解決された。13世紀後半から貴族全員の集会は議会に発展し、一方、国王側近の少数貴族は、14世紀末ごろリチャード2世の少年時代に重要性を増し、枢密院とよばれるようになった。初めは国王の私的相談機関で人数も一定しなかったが、中世末からチューダー朝にかけて、王権の強化とともに国家機関のようになり、星室裁判所を自らの管轄下に成立させるなど、行政面だけでなく司法面にも大きな力を振るった。しかし17世紀になると、二度の革命と政党や内閣制度の発達により国王の政治上の実権が薄れるにつれて、その権力は衰えてゆき、権限も形式化していった。現在ではその機能は、海外領土からの上訴裁判所その他わずかなものに限られている。
[松村 赳]
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枢府とも。大日本帝国憲法下の天皇の最高諮問機関。憲法草案審議のため1888年(明治21)4月30日設置。議長・副議長各1人および枢密顧問官12人(のち増員)がおかれた。同年5月~89年2月に明治天皇親臨のもと憲法・同付属法令・皇室典範の草案を審議した。天皇の諮問に応じて重要国務を審議するものとされ,90年改正の枢密院官制により,諮詢(しじゅん)事項は皇室典範に関する事項,憲法やその付属法令の草案や疑義,戒厳の宣言や緊急勅令の発布,列国との条約の締結などで,のちに重要な官制や文官任用などに関する勅令も諮詢事項に加えられた。議長・副議長・顧問官のほか国務大臣も会議に出席し表決に加わった。議長は初代伊藤博文以下,藩閥政治家の有力者が任命されたが,1920年代後半以降,学者出身者の任命も増加した。施政に関与しないものと定められていたが,政党政治が行われるようになると,官僚派の牙城としてしばしば内閣と対立した。27年(昭和2)には金融恐慌のさなか台湾銀行救済の緊急勅令案を否決し,第1次若槻内閣(憲政会)を総辞職に追いこんだ。民意に反するものとして批判の対象となり,敗戦後の47年5月2日,日本国憲法の施行を前にして廃止された。
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唐中期から宋・元代に行われた軍政統轄機関。翰林院(かんりんいん),三司と並び君権強化,中央集権化に貢献。宋は文臣を多く任じ,軍隊指揮権を与えなかったため,政権が簒奪されることはなかった。
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…とくに高等法院は,判決の形式で一般的な立法をなすことのできる権限や法令の登録権によって,国王の試みる改革的立法を妨害してきた。こうした状況のもとで国王は官僚機構の権限の拡大に努めるとともに,行政事件に関する裁判権を国王顧問会議(コンセイユ・デュ・ロアConseil du Roi)にゆだねたのであった。これがフランスにおける行政裁判の端緒といわれる。…
…内閣cabinetという言葉は,国王の信任する少数の大臣・寵臣からなる非公開の国政諮問会議のあだ名として,フランス語から借用された。国王の奥の間cabinetで秘密会議が開かれたのが名称の起源であるが,公式の国政諮問機関であり内閣会議の母体でもある枢密院Privy Councilの権能を簒奪し,国王専制を担う君側の奸(かん)のたまり場になると非難,警戒された。ためにチャールズ2世は外交委員会という名の事実上の内閣廃止を,一度は宣言せざるを得なかった。…
…その中ではメノー派の勢力が大きく,主としてオンタリオ南部,マニトバ,サスカチェワン,アルバータに群居し,伝統的な反近代的生活態度を守っている。
【政治】
[憲法および立憲体制]
カナダの憲法は,イギリス法およびその修正条項,勅令,カナダ法とその修正条項,枢密院令,判例および政治慣習で構成される複雑な集合体である。そのなかで基本となるのはカナダの成文憲法である〈1867年憲法法〉と〈1982年憲法法〉である。…
…ときに100万をこす膨大な禁軍によって中央,地方,辺境の軍隊が構成され,軍権は皇帝の手に一元的に集中した。軍政の元締めは枢密院であり,軍隊は三軍(殿前司・侍衛馬軍司・侍衛歩軍司)に分かれ,それぞれ都指揮使・副都指揮使・都虞候らが指揮にあたった。地方の要地に経略使,安撫使など高い肩書の官が置かれたが,これは文官の兼任するものであった。…
…
【制度】
初期モンゴル帝国の統治機構は多分に粗放なものだったから,それを具体化した官制もきわめて簡単である。中央政府としては,ハーンのオルドに近侍するケシク(宿衛)の隊長がのちの枢密院使(軍政長官)と宰相とを兼任するほか,別に司法長官に相当するジャルグチ(断事官)が加わって構成されるだけであった。地方官制も太祖元年(1206)の制定にかかる千戸制(88功臣をもって95の千戸が任命された)に基づいて,これまた軍民兼領の千戸長Mingghan・百戸長Jaghunがモンゴル系・トルコ系遊牧民の統治を担当するものだった。…
…両機関相互間の権限争議の解決方法としては,両機関には共通の上級機関が存在しないことから,特別の裁定機関・手続としての権限裁判の制度を設けたり,あるいは一方の機関に権限争議の裁定権(権限を定める権限という意味で,権限権限Kompetenz‐Kompetenzと呼ぶ)を与えたり,さらには,双方に等しく(たとえば,最初に当該事項を扱った機関に)権限権限を認めることなどが考案されてきた。 日本では,明治憲法が司法裁判と行政裁判を分離し(61条),行政裁判制度を採用していたことから,行政裁判所と通常裁判所または特別裁判所との間の権限争議を裁定するための制度として権限裁判所の設置が予定され(行政裁判法20条),かつ,その設置までの間は枢密院がそれに代わって裁定する旨規定されていた(45条)が,実際に実現されるには至らなかった。これに対して,現行憲法下では,行政裁判制度が廃止され,通常(司法)裁判所が行政事件を含むいっさいの法律上の争訟を裁判することとなり(憲法76条1・2項,81条参照),司法・行政両裁判機関相互間の権限争議は解決され,以後,権限争議はもっぱら同一系統の行政機関または司法機関の相互間で問題とされるに至った。…
…唐代に宮中で内枢密使が任命され,表面にあらわれない形で軍事関係の謀議に参画して権力を振るった。五代になると表にあらわれて公式の機関として枢密院が設置され軍事に関するいっさいを扱い,行政全般を掌握する中書と併立し,あわせて二府と称された。枢密院の官僚は,五代以降普通の官僚が任命され,宋代では文官が任命され,その長官が枢密使,次官が枢密副使であったが,長官が知枢密院事と称されるときには次官は同知枢密院事,さらにその下が簽書(せんしよ)枢密院事と称された。…
… すなわち,中央官制では,宰相の同中書門下平章事は複数とし,ほかに副宰相の参知政事を置いて,あわせて宰執と称し,政務はこれら宰執の合議ですすめられ,最終の決定は皇帝にゆだねられた。さらにもと兵部の管掌であった軍政は,皇帝直属の枢密院がつかさどり,財政は,唐末以来しだいに大きくなった三司が担当し,その長官である三司使は計相,すなわち財政上の宰相といわれた。事実,三司使は宰相に匹敵する権限を有した。…
…
[イギリスにおける沿革]
イギリスの議院内閣制は,日本のみならず19世紀以降の世界に大きな影響を及ぼしたが,その成立は,明治憲法の推進者たちも指摘したように,長期にわたる試行錯誤と同国に顕著な歴史事情に負う面が強い。その起源は身分的特権層からなる国王の諮問機関,枢密院Privy Councilにさかのぼる。17世紀に入り,同院の膨張や政治的拘束を克服するため,その中の一部寵臣,有力大臣のみを国王がみずからの奥の間cabinetの秘密会議に招く傾向が強まり,それが奥の間会議cabinet councilと通称された。…
※「枢密院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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