日本大百科全書(ニッポニカ) 「民主集中制」の意味・わかりやすい解説
民主集中制
みんしゅしゅうちゅうせい
Democratic Centralism
共産主義政党および社会主義諸国家において公式の組織原理とされたもので、民主主義的中央集権制ともいう。自由主義的分散主義と官僚主義的集権主義の双方と異なり、民主主義の原則と中央集権主義の原則とを統一したと称される論争的概念。典型的には、スターリン時代の1934年にソ連共産党規約に明記され、各国共産党規約に採用された、〔1〕党の上から下まですべての指導機関の選挙制、〔2〕党組織に対する党機関の定期的報告義務制、〔3〕厳格な党規律と少数者の多数者への服従、〔4〕下級機関および全党員にとっての上級機関の決定の無条件的拘束性、の原則をいうが、その実際の運用にあたっては、「党内民主主義」を制限し、共産主義政党の国民に対する閉鎖性・抑圧性を印象づける現実的機能をも果たした。そのため1989年東欧革命前後に、イタリア、フランス、スペインなどの共産党は民主集中制を放棄して変身をはかった。
もともと歴史的には、民主集中制は、ロシア社会民主労働党(今日のロシア共産党の前身)が、1905年革命の過程で、党内のメンシェビキ派とボリシェビキ派を統一する原理として形成された。当時の西欧社会主義政党(ドイツ社会民主党など)は、おおむね「民主主義」を組織原理とし、ロシアの革命組織はツァーリ専制下の非合法秘密結社として「集権主義」的特徴をもっていたから、この1905年革命期の民主集中制採用は、ロシアの党組織における西欧風「民主主義」(指導部選挙制、党内公開討論など)導入を意味しており、1906年の両派合同大会で党規約にも明示され、ボリシェビキ派のレーニンはこの内容を「批判の自由と行動の統一」とまとめあげた。12年にメンシェビキとの分裂が決定的になり、17年の二月革命・十月革命のさなかでも、民主集中制は基本的に党内の「批判の自由と行動の統一」として機能した。
しかし、革命勝利後の内戦と干渉戦争のなかで、またソビエト権力における共産党(ボリシェビキ)一党支配の事実上の成立によって、民主集中制は第10回党大会(1921)の「分派の禁止」決議と結び付き、「一枚岩の党」「鉄の規律」「軍隊的規律」「上級の決定の無条件の実行」といった「集権主義」的契機を強調するものとなり、これがコミンテルンの「加入条件21か条」にも明記されて、各国共産党を拘束する組織原理へと国際化された。また、一党制による党と国家の癒着を媒介として、党のみならず労働組合など大衆諸組織の組織原理に、中央政府と地方行政組織など国家機構の組織原理に、また計画経済の運営原理や社会全体の編成原理へと普遍化されていった。1991年に崩壊したソ連では、憲法で民主集中制を国家組織原則として明記していた。
この概念が論争的であるのは、特殊にロシアの革命組織から生まれたものであり、その国際化の過程で「党内民主主義」を制限する集権的原理として機能し、1989年東欧革命で民衆により打倒された「現存社会主義」の国家・社会秩序を正統化する党派的色彩を帯びてきたからである。
[加藤哲郎]