日本大百科全書(ニッポニカ) 「タイイブ・サーレフ」の意味・わかりやすい解説
タイイブ・サーレフ
たいいぶさーれふ
ayyib āli
(1929―2009)
スーダンの作家。スーダン北部の寒村に生まれる。コーランの暗唱を目的とする田舎(いなか)の学校に通い、やがて首都ハルトゥームのゴードン・カレッジで学んだのち、イギリスへ留学し、エクスターおよびロンドン大学で学ぶ。その後BBC放送局の演劇部門における仕事に携わったのち、カタールの情報省を経てパリのユネスコに籍を置きながら、創作にあたる。1960年ごろから創作を始めたが、概して寡作の作家であった。代表作としては、『ワド・ハーミドのドウマの樹(き)』(1962)、『ゼーンの結婚』(1966)、『北へ遷(うつ)りゆく時』(1966)、『バンダル・シャー』(1971)などがある。とくに『北へ遷りゆく時』は、これまでのアラブ現代小説から一頭地を抜いており、アラブの文芸批評家たちに衝撃を与えた。作品は語り手が物語を明かしてゆく手法をとりつつ、しだいに語り手も物語に参入し、複合的にドラマが織りなされてゆく。標題の北とは、南の地スーダンからみたヨーロッパ、イギリスである。ムスタファという名のスーダンの優れた頭脳がヨーロッパ文明の一分野(経済学)を目ざし、短期間に吸収、征服しイギリスの大学で経済学を講ずるべく教壇に立つが、同時に彼はイギリス女性を次々に渉猟し、死に追いやる事件を引き起こす。やがて彼は、妻殺害の咎(とが)で投獄される。刑を終えたムスタファはナイルの上流にある故郷に帰る。彼はそこで家庭をもち静かな生活が始まるが、ナイルの水かさが増したある夏の夜、その流れの中で謎の死を遂げる。この作品には、イギリス植民地主義による暴虐とその禍根に対する、スーダンからの個による復讐(ふくしゅう)劇やイスラムの狭い枠に規定されない汎宗教的風土の示唆など、多様なテーマが盛り込まれ、さまざまな読み方を可能にする奥深い書である。海外の文芸批評も、この書のさまざまなテーマを扱い、作品論も刊行されている。
スーダンには詩という韻文の蓄積は幾分あったにしろ、小説という散文のジャンルにおける伝統のようなものは皆無に近かった。タイイブ・サーレフはそのような状況下にあって、『北へ遷りゆく時』を世に問うた。それはまったく予期せぬことであっただけに、とりわけ激しい衝撃を受けたエジプトの文芸批評家たちは驚きながらも絶賛した。こうしてサーレフは、現代アラブ文学における注目されるべき作家の一人となったのである。
サーレフには、『ゼーンの結婚』という佳作がある。『北へ遷りゆく時』によって、北(イギリス)から南(スーダン)への帰還を終えた作家・サーレフはもはや外界に目を向けようとはせず、ナイルの岸辺に生きる土着の社会に注目し、そのなかにナイルの申し子ともいうべきゼーンという名の人間を解き放って『ゼーンの結婚』を書いた。闇(やみ)深く、一見文明から取り残された感はあるが、ナイルから奔放な生命力を与えられたこの地こそ、人間のまがいなき真正な生を叶(かな)えてくれる地であることを、この作品は明かしている。
[奴田原睦明]
『黒田寿郎・高井清仁訳『現代アラブ小説全集8 北へ遷りゆく時 タイーブ・サーレフ』(1989・河出書房新社)』