ワイマール文化(読み)ワイマールぶんか

改訂新版 世界大百科事典 「ワイマール文化」の意味・わかりやすい解説

ワイマール文化 (ワイマールぶんか)

第1次大戦の敗戦によって出現したドイツ共和国は,ワイマールでの制憲議会にちなんでワイマール共和国と呼ばれている。ワイマール文化とは,ヒトラーの政権獲得によってこの共和国が崩壊するまでの14年間に花開いた華やかではあるが矛盾に満ちた不協和の文化の名称である。

ヨーロッパ市民社会と文化は19世紀に未曾有の発展を遂げながら,他方で帝国主義的反動化に陥った結果として解き難いジレンマを背負うことになった。この袋小路を脱する道は閉ざされていたので,閉塞状態の中で窒息した市民意識は自己に幻滅し,己の文化への憎悪,激しい自己解体への願望を生んだ。その文化的な現れが,逆説的な否定的ラディカリズムとしてのモダニズムだった。この傾向は第1次大戦前すでにヨーロッパ全体に顕在化していたが,第1次大戦の結果〈ヨーロッパの没落〉が意識されたドイツでとくに尖鋭化した。しかもドイツ革命が挫折して旧秩序が維持されたため,文化上のラディカリズムと社会的基盤の亀裂は極限に達した。そこで〈伝統とモダニズムとの衝突が激しく続いたドイツは,最も現代的なアバンギャルド傾向の本場であると同時に,これに対する最も激しい反動の本場〉(W. ラカー《ワイマール文化を生きた人々》)となった。汎ヨーロッパ的なモダニズムは〈大衆社会〉の出現という新しい段階に直面して現代化し,現象的にはきわめて興味深い様相を呈した。しかもロシア革命とオーストリア・ハンガリー二重帝国の崩壊の結果,ドイツには多くの東方からの亡命者や流浪者がなだれ込んだうえ,アバンギャルドのコスモポリタン的な傾向のために,ベルリンを中心としたドイツが東方文化圏の収斂(しゆうれん)点となった。ワイマール文化は,こうした汎ヨーロッパ的なモダニズムの潮流が,1920年代のドイツで現出した特殊形態である。と同時にヨーロッパ文明の自己崩壊が世界史のメルクマールとなる転回点となったという意味で,歴史的に決定的な段階である。

 その特徴は極端なアンビバレンス(両義性)である。花咲く創造性が度しがたい凡庸さと混じり合い,市民文化の崩壊という同じ根から,20世紀を規定する豊かな文化的所産とナチズムに帰結する文化破壊への傾向とが分かちがたく結び合って生成し,共存していた。そして史上まれなほどの多様な文化的可能性の万華鏡が提示されたが,高揚と空虚の混交した創造性は,いわば〈いかがわしさ〉を特徴としていた。

文学においては,まず表現主義,続いて新即物主義が流行するが,それは熱病のような〈高揚〉とその後に来るしらけきった〈空虚〉とみることができる。自己を否定する小市民的ラディカリズムのもつ両義性は,解体を通じての解放とファシズムへの転落を内包し,のちにソ連に亡命した知識人の間で,それを肯定的に評価するか否定的に評価するかをめぐって,激しい〈表現主義論争〉を巻き起こすもととなった。その名も《父親殺し》という戯曲によってワイマール初期の演劇界を象徴するスキャンダルを引き起こしたブロンネンArnolt Bronnen(1895-1959)は,やがてナチスに傾斜し,19世紀ドイツ市民文学の最後の代表者トーマス・マンの〈理性に訴う〉という講演を妨害するリーダーとなった。父親に対する〈息子の反逆〉〈サド・マゾ的心情〉と定式化されるこうした意識は,そこから脱却していくブレヒトにも色濃く投影していた。アウトロー的シニシズムと残虐趣味によって時代の演劇となった彼の《三文オペラ》は,一つの世界の没落のシグナルだった。トーマス・マン,ヘルマン・ヘッセといった市民的ヒューマニズムの文学も,むしろカタストロフィーの意識を背景としたからこそアクチュアリティをもったといえよう。もっとも特徴的なのは,第1次大戦の前線世代を代表して,俗物的な市民の日常生活のアウトサイダーとしての心情を,耽美的な革命的ナショナリズムの文学に形象化したユンガーであり,様式上のアバンギャルド性が小市民的な夢想と分かちがたく結びついているG.ベンである。ケステンHermann Kesten(1900-96)はワイマール時代の最終段階の人間像を形象化して,いわば英雄伝説をネガティブに逆転させた《いかさま師》(1932)を発表し,同一人物において才能といかさまが混合しているこうした傾向を象徴した。

モダニズムのゲルマン的変種である〈橋(ブリュッケ)〉〈青騎士(ブラウエ・ライター)〉といった表現主義絵画グループは,すでに第1次大戦前に成立していた。しかし大戦後それは革命的連帯の運動に〈高揚〉してから,予感と不安に満ちたクールな〈魔術的リアリズム〉に変貌していく。O.ディックスの三枚絵《大都会》(1928)や《戦争》(1932)は終末論的ですらある。ベックマンの超越論的即物性を経て,ホーファーCarl Hofer(1878-1955)はすでに実存性にまで到達した。

 他方,表現主義以上に否定性を徹底させ,もはや〈芸術〉の革命ではなく,市民社会の崩壊意識そのものを一つの運動体として破壊的に体現したのが,〈すべてに対するアンチ〉を旗印とするダダイズムダダ)であった。〈プロパガンダ〉として絵画を市民社会の実相の暴露に変えたG.グロスや,コラージュの手法を闘争の武器に変えたハートフィールドは,アバンギャルドがワイマール共和国の混沌の中で体現した一つの極点を示している。

 ワイマール文化の中で国際的にもっとも大きな影響を及ぼしたのは,〈バウハウス〉運動を核とするドイツの建築・都市計画の新しい成果だった。革命的高揚期のユートピア的傾向から,鉄とガラスとコンクリートの機能主義的なインターナショナル・スタイルを確立して,今日の世界を支配する近代主義建築のモデルを生み出すまで,アバンギャルドと勤労者大衆のためにという社会主義イデオロギーとの結合は,ワイマール文化の両義性を目に見えるものとして提示してくれた点で,大きな意味をもつ。グロピウスやB.タウトの目ざした勤労者のための集合住宅は,日本の団地が今日果たしている役割を考えれば,原型としての意味は測りがたいほど大きい。しかし同時にこの〈住むための機械〉が,結局資本主義的合理性の徹底であったことの限界は,今日その解放的意味を逆転させる空虚さを露呈している。

ワイマール文化のモダニズム的革新性と虚妄性の逆説的結合は,音楽の領域においても顕著だった。ベルリン音楽院作曲科の教授として,F.ブゾーニに続いてシェーンベルクが招かれたことは,執拗に反対した保守派に対するアバンギャルドのコスモポリタニズムの一時的勝利ではあったが,ベルクの《ウォツェック》を除けば,〈無調性〉の音楽は結局一般の支持を受けることはできなかった。ブレヒトの《三文オペラ》のためにクルト・ワイルが作曲したソングは圧倒的な成功を収めたが,この消費音楽の音素材はまことに陳腐なものだった。にもかかわらずそれはワイマール時代の鏡ともいうべき音楽だった。創造性と凡庸性の共存したいかがわしい,しかしまぎれもないアクチュアリティをもった音楽,それがワイマール共和国の音楽だった。そうした〈空虚なアクチュアリティ〉の魅力は,大衆音楽としてのカバレット・シャンソンやヒット曲のメロディにおいて,とくに顕著だった。

ワイマール文化を大戦前のモダニズムと分かつ重要な指標は,大衆文化である。ベルリンをはじめとする大都市に登場したサラリーマン大衆は,〈精神的に根無し草〉の不安定な存在として,市民文化の破壊の担い手であると同時に,ファシズムの温床たるモッブ(群衆)でもあった。時あたかも新しい大衆的媒体としてラジオと映画が,市民文化の狭い枠を破って,文化と情報を大衆に解放した。演劇が紳士淑女のものだったとすれば,映画は大衆のものだった。そしてワイマール共和国の映画はいわゆる表現主義映画として,映画史上はじめてドイツ映画の黄金時代を生み出した。だがそれは大衆が両義的だったと同様に,最初から通訳不可能な矛盾を内包したアンビバレンスを特徴としていた。ドイツ人の内的ジレンマを表出した怪奇幻想が,ドイツ表現主義映画を規定する基調音であるが,傑作《カリガリ博士》は,それをもっともよく代表している。そのうす気味悪い形姿はクラカウアーによってナチズムの抑圧的暴君体制を予言したものとされ,ゲイPeter Gay(1923- 。《ワイマール文化》の著者)によって〈ワイマール共和国が生んだ最も重要な作品〉と位置づけられた。そして表現主義映画によって噴出した革命的情熱が,やがて冷たい空虚なサディズムを内容とする《嘆きの天使》,つまりクールなバンプ,マルレーネ・ディートリヒの足に踏みにじられていく過程ほど,大衆文化としてのワイマール文化の混沌としたカタストロフィー的性格を物語るものはない。

ワイマール時代の思想的営為は,危機意識をその特徴としている。それはまずシュペングラーの《西洋の没落》2巻(1918,1922)という終末論的ビジョンによって始まった。それは理論的欠陥にもかかわらず,人々の感情の現実と一致したためすさまじい成功を収めた。同時にそれはヨーロッパ中心主義の崩壊と相対主義の普遍化という,新時代の原理を準備するものだった。そして相対主義はウェーバーによって文化の危機意識として極限化された。彼の思想的営為は伝統的価値が清算される一段階であり,むなしい努力ではあったが,その努力自体がワイマール文化のエートスでありパトスだった。だがワイマール化の逆説的な両義性の思想的頂点はハイデッガーの《存在と時間》(1927)だった。そこに示されている精神の姿勢は,実存主義という遺産となって,ワイマール文化のジレンマを今日に伝えている。アドルノ,ベンヤミンの否定性の哲学はその対極に位置してはいるが,矛盾を担うその姿勢には,符号は異にしても同じ時代の刻印がある。
ワイマール共和国
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ワイマール文化が日本の知識人の心性に強い磁力をもつのは,1920年代に人類にとって実験的なさまざまな学問論が登場し,それらが現代の思想の共有財産になっていること,さらに次の30年代のファシズムの時代に悲劇的な運命をたどったということにあろう。だがワイマールの思想についていえば,それは第1次大戦と革命後に突如出現したのでなく,前世紀の1890年代から世紀末にかけての大衆化状況の中で醸成されていたといえるだろう。

 文学と芸術における表現主義,ニーチェの〈神の死〉宣告,フロイトの精神分析,ユングの深層心理学,マッハの感覚要素論は,従来の学問観に強い衝動を与えずにはいなかった。実証主義と歴史主義,さらにそれらを母胎にした社会科学はその基底を問責された。戦争体験,子の親に対する反逆,青年運動と性の解放,カリスマ的指導者崇拝の風潮の中で,〈学問における革命〉が進行した。これがワイマールの思想の基調になっている。

 自然科学の精密化とその装置の巨大化と並行しながら脱呪術化の道を歩んだ社会科学は,政治,経済,法,歴史の諸学の分野で七堂伽藍の壮大な体系の殿堂を構築した。歴史学から社会学へという移行過程の中で社会科学は形成された。ウェーバーの社会科学の方法はその典型でもある。彼の,〈宗教社会学〉〈支配の社会学〉〈法社会学〉を含む《経済と社会》は20世紀の社会科学の金字塔といってよい。

 しかしその成立と同時に社会科学の流れと逆流する知の反乱を迎える。シュペングラーの《西洋の没落》はヨーロッパ近代からの脱却,進歩への懐疑,実証主義への批判を底音にして,自然科学の因果性,概念,体系性に対して比喩,象徴,直観を対峙させた。しかも,1920年代の潮流を占うかのようにベストセラーになる。

 ニーチェの思想は,ヨーロッパの市民社会を構成する自由な理性人への懐疑,《力への意志》にみる本能への回帰を呼び起こす。理性と自我の下に隠されていた〈無意識〉が白日の下に引き出され,あらためて科学の対象になる。フロイトの精神分析は,神経症の病因として幼児性欲論を唱え,さらに神経症患者と原始人との相似性を人類学の成果から導き出し,人類史をさかのぼることによって現代人の心を読む方法を開示した。ここに理性と自我を前提とした従来の科学知がいかに表層の意識の範疇にとどまっているかを知らしめたのである。フッサールの現象学にみる本質直観も,認識の底流にあるものを見ようとする点でフロイトと同時代の発想であった。しかしフロイトは大筋としてヘルムホルツ派の物理的生物学の立場を崩さなかった。これに対して,ユングは神話群の解読から人間の〈普遍的無意識〉を見いだし,フロイトとちがって〈無意識〉に霊的創造力を認めた。ユングの元型論は,ゲーテの形態学(モルフォロギー)の復権とシンボルの回復を図っている。こうした人間の原質を求める動きは,精神分析家にとどまらず,ワイマール文化を担った人々にみられる。ワールブルク研究所をつくったA.ワールブルクは,美術史から古代人のシンボル研究に向かったし,法制史家のバハオーフェンは考古学からシンボルの解読を通して母権制を発掘した。

 かくてワイマールの思想は,人類学の視点を変えた。もはや進歩した文明人が原始人を対象として観察する人類学ではない。アフリカ研究(L. フロベニウス)やインディアン研究(A. ワールブルク,ユング)には,ヘブライ,ヘレニズムの文明のさらなる根源を求める人間学の眼が生きている。こうした思考は,自然への回帰,反都市,反資本という〈反近代〉の姿勢と結びつき,神智学,神秘主義の風潮とも部分的に重なっている。芸術と宗教の一体性を求めたR.シュタイナーの人智学は新たな人間学の発見であった。総じてワイマール文化は全体知を希求する人間学にとっての肥沃な土壌になっていたといえよう。

 だが,ワイマールの思想は,けっして〈反近代〉,〈非合理〉にのみ彩られるものでない。むしろ自然科学の動きが科学知の変容と密接に関連している。E.マッハの〈感覚要素論〉〈純粋経験〉は,古典的なニュートン力学の台座を揺るがせた。アインシュタインの相対性原理,ハイゼンベルクの不確定性原理の出現は,科学の準拠律であった因果性,決定論,還元主義を相対的なものにしてしまったのである。いまや物理学者の科学哲学は,芸術,文学,認識論に連動する。とくにマッハ主義は,表現主義のR.ムージルや,ウィーンの文学者ヘルマン・バール,法律学者のH.ケルゼンやハンガリーのポランニー兄弟にも影響を及ぼした。この新実証主義の延長線上にウィーン学団とウィトゲンシュタインの科学思想がある。

 かくてワイマールの思想は,たんに〈近代〉と〈反近代〉,〈合理〉と〈非合理〉の対立の図式に収斂(しゆうれん)されるものでない。それは,合理性,明証性と予測性の極限を追い求める科学観と,神秘主義も含めて,人間の心の,隠された深層部に探測器を投入して,人間の原質を見きわめようとする科学観とが互いに競い合い,交差し合ったものといえよう。

 また科学の対立にとどまらない。ワイマールの文化は,レンテンマルクの通貨下落,大恐慌,ベルサイユ条約とナショナリズムの台頭,右翼からの反革命運動による社会的混乱の後,ファシズムによって窒息させられた。ワイマールの思想と芸術をつくり出した人々は,亡命か国内沈黙か,それともナチスに利用され,その後離反する運命を背負わされた。政治の極限状況が人間の英知をこれほど引き裂いた時代はない。1933年のナチス政権獲得は,ヤスパースとハイデッガーを決別に追いやった。法学と政治学の世界で人気を二分していたH.ケルゼンとC.シュミットとの間の人間ドラマは,時代の悲劇を象徴している。マッハの科学論の洗礼を受け,国家の虚構性を信じた,《純粋法学》のケルゼンはアメリカに亡命し,一方《政治神学》において例外状況に決断を下す者こそ主権者であると断じ,時代をみごとに透視したシュミットは,ナチスの法学者になり,後失脚させられた。しかしこれらは,いずれも現代に生きるわれわれに呼びかける力を失っていないのである。
世紀末 →戦間期
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ワイマール文化」の意味・わかりやすい解説

ワイマール文化
ワイマールぶんか
Weimarer Kultur

第1次世界大戦後のワイマール時代 (1919~33) にドイツで開花した美術,映画,演劇,建築,文学,思想,社会科学の各分野における成果の総称。美術における P.クレーらの表現主義,建築での W.グロピウスらのバウハウス運動,演劇での B.ブレヒト,社会科学では M.ホルクハイマー,T.アドルノらのフランクフルト学派がその代表。ワイマール文化は伝統的なドイツ文化に比べるときわめて近代主義的,コスモポリタニックな性格をもち,当時のドイツ一般大衆にはなじめず,やがて反動的なナチスの国粋主義的な文化統制を容易ならしめる一因ともなった。

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世界大百科事典(旧版)内のワイマール文化の言及

【戦間期】より

…彼の悲劇は,文学や芸術に対する官僚的統制の代名詞にまで頽廃しかねない〈社会主義リアリズム〉の危険を予告したかのようにみえる。
[ワイマール文化の栄光]
 戦前からドイツ,オーストリアで表現主義として知られていた文学・芸術運動は,F.カフカの作品が示しているように,現代社会にひそむ不安や恐怖をえぐりだしたが,この流れをくむ知識人の何人かは,戦後のドイツで政治的左翼の立場に身を置き,政治的実践に理想を燃焼させた。また既成芸術の全面否定のうえに新しい美の秩序を打ち立てるべきであると考えたダダイズム(ダダ)も,急進左派の政治運動に支持者を供給した。…

※「ワイマール文化」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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