元首政と訳す。ローマ帝政期前半(前1世紀後半から後3世紀末まで)の国制。ローマ皇帝がプリンケプスPrinceps(市民の第一人者。元首と訳す)とよばれていたことに由来する。皇帝が臣下から、奴隷が主人をよぶようにドミヌスDominus(主人)とよばれることにより、帝政後期をドミナトゥスDominatusとよぶことと対をなしている。元首の支配体制が、ローマ市民の自由をたてまえ上保障して打ち立てられていたことが特色である。
この国制の基本は、アウグストゥスにより確立されたものであるが、次のような内容をもっていた。(1)元首は全軍隊を実質的に指揮し、属州のなかば以上を管轄し、総督を任命する。(2)元首はまた、抜群の業績により比類なき権威をもつ市民の第一人者として、最良の市民の指導に対し市民たちが自主的に従うというローマの伝統に基づき、国政全般を指導する。(3)可能な限り共和政の国制を維持、尊重する。(4)元来は1年任期の諸公職の権限を特例として終身あるいは長期間保持し、従来の公職では対応できない行政分野を分担する。
プリンキパトゥスの全期間を通じて、これらの点は基本的に変わらなかったが、いくつかの点で変化があった。その一つは、元首の地位が個人的権威に基づくため、元首生存中に後継者に元首の諸権限を与え、権威をもたせるようになったことである。また、共和政の国制中、民会は、主要な機能である公職者の選挙が元老院に移管され、その意義を失った。1世紀には元首と対立することもあった公職経験者からなる元老院も、選挙の際の元首の推薦、元老院議員の特別任命により、その構成が変わり、共和政以来の名門貴族が姿を消した2世紀には元首と元老院の関係は良好となった。さらに、元首担当分野の公職中、重要な属州総督、軍団指揮官などは元老院議員が任命され、他の公職は、軍務を果たしたのちに昇進した騎士身分の者が任命され、元首を補佐して帝国を統治するようになり、後者の役割がしだいに大きくなった。
このようなプリンキパトゥスの体制は、外敵の侵入、内乱、経済上の困難を伴う「3世紀の危機」を経て変質し、元老院議員は帝国の行政、軍事から排除され、皇帝(ドミヌス)をいただき、軍事色の強い官僚組織をもつドミナトゥスが成立した。
[島田 誠]
ふつう「元首政」と訳され,ローマ帝政の前半(3世紀まで)の政体で,後半のドミナトゥス(専制君主政)と区別される。アウグストゥスが確立したプリンケプス(元首)の政治は,共和政の伝統に敬意を払う独裁政で,皇帝はローマ市民の一人でありながらも,元老院の第一人者。将軍としての権威において万人にまさり,政治を牛耳(ぎゅうじ)った。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…ローマ皇帝アウグストゥスによって確立されたプリンケプス(〈元首〉あるいは〈第一人者〉)の統治体制(プリンキパトゥス)を意味する用語。共和政末期の内乱を収拾して国家最大の勢力家となったアウグストゥスは,養父カエサルの独裁政樹立の挫折を考慮して共和政の国制に手を加えず,〈余は権威においては万人に勝りしも,公職にある同僚たちを凌ぐ権力を持たず〉と言明し,〈ローマ市民の第一人者〉と呼ばれた。…
…同年元老院は彼に〈アウグストゥス〉の尊称を与えた。彼自身は自らの地位をプリンケプス(〈第一人者〉)と呼んだ(そのため彼の始めた国制をプリンキパトゥスと呼び元首政と訳される)が,このような彼の地位は〈皇帝〉の名にふさわしいので,われわれは彼を皇帝と呼び,ここにローマは帝政期に入ったとみるのである。 一般的には共和政期の官制がそのまま続いたが,彼の周囲には皇帝顧問会(コンシリウム・プリンキピスconsilium principis)が置かれ,新たに親衛隊長(プラエフェクトゥス・プラエトリオpraefectus praetorio)などの官職がつくられた。…
※「プリンキパトゥス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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