チチェーリン(読み)ちちぇーりん(その他表記)Борис Николаевич Чичерин/Boris Nikolaevich Chicherin

日本大百科全書(ニッポニカ) 「チチェーリン」の意味・わかりやすい解説

チチェーリン(Boris Nikolaevich Chicherin)
ちちぇーりん
Борис Николаевич Чичерин/Boris Nikolaevich Chicherin
(1828―1904)

ロシアの歴史家、法学者、哲学者。ロシアの歴史を国家による上からの組織化の進行過程としてとらえ、社会関係の形成における国家の役割を強調する、いわゆる国家学派の創始者の一人である。政治的には行政的集権化を支持し、公益を守るために国家が上から統制を加えることの必要を説くと同時に、法治主義と権利の確立をも目ざした。それゆえアレクサンドル2世の諸改革の意義を積極的に評価し、のちには立憲君主制の熱心な提唱者となった。哲学の分野では、合理主義的に理解されたヘーゲル主義の立場にたち、神秘主義実証主義を退けた。ロシアにおけるマルクスの批判者として知られる。

竹中 浩]


チチェーリン(Georgiy Vasil'evich Chicherin)
ちちぇーりん
Георгий Васильевич Чичерин/Georgiy Vasil'evich Chicherin
(1872―1936)

ロシア・ソ連外交官。チチェーリン家は古い貴族の家系一族に外交官が多い。叔父は著名な法学者B・N・チチェーリン。ペテルブルグ大学卒業後、外務省に勤務したが、退職して革命運動に加わり、1905年ベルリンでロシア社会民主労働党に入った。07年に同党中央在外事務局書記となり、メンシェビキに属したが、第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)後はボリシェビキに移った。17年の十月革命後、抑留されていたイギリスから帰国してトロツキー外務人民委員を補佐し、ドイツとの講和交渉にあたった。18年5月末より外務人民委員。ジェノバ会議ローザンヌ会議にソビエト全権代表として出席、ドイツとラパロ条約を締結するなど、列強との復交、ソ連の国際的地位の安定に尽力した。30年に病気のため引退して、リトビノフと交替した。

[原 暉之]

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改訂新版 世界大百科事典 「チチェーリン」の意味・わかりやすい解説

チチェーリン
Georgii Vasil'evich Chicherin
生没年:1872-1936

ソ連邦の外交官。タンボフ県の古い貴族の家に,退役外交官を父に,外交官の娘を母にして生まれる。少年時代から社会的矛盾に悩み,ペテルブルグ大学卒業後,隠遁のため外務省文書館に勤務。その後革命運動に接近し,国外でボリシェビキとメンシェビキの双方に接触。ベルリンで逮捕,追放の後,ロンドンでロシア革命を迎える。1918年1月帰国し,すぐブレスト・リトフスクでの交渉に参加。このとき正式に共産党に入党し,病気を理由に退官する30年まで外務人民委員(外務大臣)の要職にあった。在任中は,ドイツおよびアジア諸国との緊密な関係を支えに,反英・反ベルサイユ体制の外交をすすめた。25年から30年まで党中央委員。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「チチェーリン」の解説

チチェーリン
Grigorii Vasil'evich Chicherin

1872~1936

ソ連の政治家。1905年にロシア社会民主労働党入党。18年帰国し,外務人民委員となり,ブレスト・リトフスク条約に調印した。ジェノヴァ会議ローザンヌ会議に出席,ラパロ条約を締結した。

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