改訂新版 世界大百科事典 「チフトリキ」の意味・わかりやすい解説
チフトリキ
çiftlik
オスマン帝国支配下のアナトリア,バルカンにおいて,18世紀以後に現れた〈私的大土地所有〉。チフトリキの語は,ペルシア語で〈対〉を意味する言葉ジョフトjoftに由来するトルコ語で,〈耕作地〉を意味し,元来は15~16世紀を中心としたティマール制下における小農民的保有地(約6~15ha)を指していた。16世紀末以後,ティマール制がしだいに変質・解体すると,小農民的土地保有関係が崩れはじめ,徴税請負(イルティザーム),高利貸付,官職利用,開拓・干拓などの手段によって土地を獲得する者が現れ,18世紀に入るとチフトリキの名でよばれる〈私的大土地所有〉が,とりわけ河川流域の平野部や商業交易に至便な地域において,広範に成立した。ただし,〈私的大土地所有〉の訳語は二つの意味で限定を受ける。第1には,ティマール制下のアナトリアとバルカンにおいて,耕作地は法律上すべて国有地とされた土地法上の規定がなお生きており,訳語にいう〈私的〉とはあくまで,法的権利を意味するものではない。したがって,チフトリキの〈所有者〉が死亡したり,失脚すると,チフトリキは国家によって容易に没収された。第2は,チフトリキの規模が,平野部では,しばしば500~1000haに上るのに比べて,ボスニアなどの山間部では,都市富裕層の〈私的所有〉下におかれた10ha前後の小地片もチフトリキの名でよばれたことである。つまり,チフトリキの規模は立地条件によって大きく左右された。
チフトリキの〈所有者〉は,官僚,軍人,ウラマー,商人など,さまざまであるが,とくにアーヤーンとよばれる地方有力者層が多かった。彼らは,18世紀以後,イルティザームとよばれる徴税請負権,都市における各種不動産財などを併せもっていたが,その経済力の基礎をなしたのがチフトリキであった。
チフトリキは,一般に,ケトヒュダーkethüdāとよばれる管理人の手を通じて経営されたが,そこにおける農業技術,農産物の市場化,農業労働力の調達と雇用条件など,今後の研究課題として残された余地は大きい。ただし,農業技術面では,小農民による伝統的農業技術を大きく改良したものではなかったと思われる。また農産物の市場化については,小麦,大麦,豆類,野菜,果樹などの自給的作物のほかに,綿花,タバコ,トウモロコシなどの商品作物の栽培に力点がおかれたが,19世紀前半までは,自給作物と商品作物とのバランスが維持されていた。しかし,後半には,エーゲ海沿岸地方などに綿花,タバコ,アカネなど輸出向け商品作物に特化したチフトリキが現れた。
チフトリキの多くは,羊の飼育場である〈羊囲い〉を伴い,また,馬,牛,ラクダ,水牛,ラバ,ロバなどの家畜も多数飼育され,チフトリキの境界内部には耕作地のほかに,小作人小屋,所有者の邸宅,家畜小屋,放牧地,果樹園,野菜畑などを含んでおり,チフトリキは農業生産と牧畜とを兼ね備えた性格をもち,自然的・地理的に多様なアナトリアとバルカンの風土を反映してバラエティに富んだ経営形態をもっていた。チフトリキの普及は,アナトリアとバルカンにおける土地所有関係を,小農民的土地保有から〈私的大土地所有〉へと大きく変え,同地域の近代史に土地法改正,農地改革などの問題を残した。
執筆者:永田 雄三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報