改訂新版 世界大百科事典 「ティマール」の意味・わかりやすい解説
ティマール
timār
建国から16世紀末にいたるオスマン帝国の国家と社会とを規定した軍事封土制。軍事封土は,その規模に応じて,ティマール,ゼアメトzeamet,ハスhasとよばれるが,これらを総称してティマール制とよぶ。セルジューク朝やマムルーク朝などのイクター制の系譜を引き,ビザンティン帝国のプロノイア制の影響を受けている。ティマールの語源についてはペルシア語説などがあるが,定説はない。
内陸アジアから移住したトルコ族によって13世紀末に建国されたオスマン帝国は,16世紀前半までに,西アジア(イランを除く),北アフリカ,バルカン半島の大部分を征服・併合した。その軍事力の中心をなしたのはシパーヒーsipāhīとよばれる騎兵を中核とした在郷軍団(16世紀半ばには約4万騎と推定されている)であった。シパーヒーは,スルタンによって与えられた〈封土〉(ディルリキdirlik。生計手段の意)から生じる租税の徴収・取得権を認められる代償として,平時には治安の維持,農業生産の管理,戦時には〈封土〉の多寡に応じた数の従士を従えて出征した。封土の多寡は,アクチェとよばれた貨幣単位(銀貨)で示される租税額によった。シパーヒーの封土はティマールとよばれ,その規模は2万アクチェ以下と定められていた。出征したシパーヒーは上級の封土ゼアメト(2万~10万アクチェ。その保有者はアライベイalaybeyi,スバシsubaşıとよばれる)およびハス(10万アクチェ以上。その保有者はサンジャクベイsancakbeyi(県軍政官)およびベイレルベイbeylerbeyi(州軍政官))の保有者たちの指揮に従った。この制度は,帝国領土のうち,アナトリアとバルカン半島のほぼ全域およびシリア(歴史的シリア)の一部の地域に施行され,これら諸地域に社会的・文化的共通性を付与した。
建国初期から15世紀中葉までの時期には,ベイレルベイら上級封土の保有者が小規模なティマールを授ける権利を有したが,イスタンブール征服(1453)以後中央集権体制を強化し,スルタンによる一元的支配を意図した政府は,封土授受を証明する認可状の公布をスルタンの手に集中したため,上級封土の保有者と下級封土の保有者との間の〈封主・封臣〉関係はほぼ消滅した。また,封土の世襲は,現実には頻繁に存在したが,原則として定められていたわけではなく,世襲がなされた場合でも,父親が戦功によって得た〈加増分hisse〉を差し引いた〈基本封土kılıç〉だけが相続された。このほか,シパーヒーに対して,封土に指定した村落から生ずるすべての租税収入の徴収の取得権を独占的に与えることをせず,結婚税,罰金税,保護税などを当該地域のスバシやサンジャクベイとシパーヒーとで折半させ,また,特定の村落を1人のシパーヒーの封土に指定せず,数人のシパーヒーに共同保有させるなどの手段を通じて,中央政府は,シパーヒーが特定の村落ないしは地域を単独で領域支配することを妨げることによってシパーヒー層の封建領主化を阻止することに意を用いた。また,サンジャクベイ,ベイレルベイ層にはデウシルメ制によって徴用した官僚・軍人層を登用し,任地を頻繁に移動させることによって彼らの在地化を妨げた。また帝国における裁判権は,すべてイスラム法の施行者であるカーディー(裁判官)に独占させ,最高の封土保有者であるベイレルベイといえども領主裁判権は認められなかった。ティマール制の適用された地域では耕作地はすべて国有とされ,封土保有者に土地所有権は与えられなかった。農民は土地に対する用益権の世襲を認められ,シパーヒーに対する賦役は必要最小限にとどめられて,スルタンの保護を受ける代りに,耕作を放棄して勝手に土地を離れることを許されなかった。
ティマール制下の農村社会は,おおよそ6~15ha程度の土地を保有する自作の小農民を中核とした比較的均質な社会構成をもっていたが,村相互間の交流,遊牧民との交易,都市や定期市への出荷など,商業と貨幣経済の盛んな西アジア社会の特徴を備えていた。16世紀におけるオスマン帝国の繁栄は,ティマール制に支えられた政治的・社会的安定に負うところが大きかったが,16世紀末以後,帝国財政の赤字に伴う〈封土〉の没収,メキシコおよびペルー産銀の流入などによるインフレの進行,シパーヒー層の出征義務放棄などを契機としてティマール制は解体に向かい,18世紀以後は徴税請負制(イルティザーム)と〈私的大土地所有〉(チフトリキ)とが普及すると,ティマール制は形骸化し,19世紀半ばに廃止された。
執筆者:永田 雄三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報