デプレーティス(英語表記)Agostino Depretis

改訂新版 世界大百科事典 「デプレーティス」の意味・わかりやすい解説

デプレーティス
Agostino Depretis
生没年:1813-87

イタリアの政治家ロンバルディア地主の家に生まれる。パビア大学卒業後,地方行政や自己の農場の経営に携わる。1848年サルデーニャ王国の議員となり,50年には左派系の新聞《イル・プログレッソ》を創刊。53年ごろまではマッツィーニ思想に大いに共鳴した。イタリア王国が誕生すると,公共事業大臣(1862),海軍大臣(1866-67),大蔵大臣(1867)を務める。王国の発足以来政治の実権を握っていた〈歴史的右派〉が政権の座を離れた76年以後は,76-79年首相,79-81年内務大臣,81-87年首相というぐあいに,短期間を除いて常に権力中枢に位置する。その間,内政面では初等教育の義務教育化,製粉税廃止,選挙権の拡大,テルニ鉄鋼会社の設立を根幹とする軍事工業の育成,外交面ではドイツやオーストリアとの三国同盟締結東アフリカでの植民地の獲得などを行った。なお,彼の主導下で行われた議会多数派形成をめざした政治のやり方は,トラスフォルミズモと呼ばれる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「デプレーティス」の意味・わかりやすい解説

デプレーティス
でぷれーてぃす
Agostino Depretis
(1813―1887)

イタリアの政治家。青年時代マッツィーニの思想に共鳴し、1848年にピエモンテ議会に選出されると、民主的反対派の領袖(りょうしゅう)の1人になった。カブール財政政策とクリミア戦争への参加に反対したが、1859年に始まる独立戦争期には、カブールの穏健主義とガリバルディなどの民主派急進主義の間の調停役を務めた。その後、イタリア議会において右派政権に反対する左派の戦いを指導し、1876年、最初の左派政権の首班となった。以後およそ10年間、8次に及ぶ組閣を行い、新時代を築いた。その間、右派との妥協や取引による腐敗政治を非難されながらも、選挙法の改正(1882)、財政・税制の改革、運輸革新、またドイツ、オーストリア、イタリア間の三国同盟の締結(1882)とアフリカへの進出などの内外にわたる新政策を打ち出した。

[重岡保郎]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「デプレーティス」の解説

デプレーティス
Agostino Depretis

1813~87

イタリアの政治家。イタリア統一以前は民主派の活動家としてガリバルディと行動をともにした。統一後は議会内左派の政治家として行動し,1876年に左派として初めて首相となる(在任1876~78,78~79,81~87)。在任中は参政権の拡大や不評であった製粉税の廃止を行う一方,三国同盟を締結し東アフリカの植民地獲得に乗り出した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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