日本大百科全書(ニッポニカ) 「トロンプ・ルイユ」の意味・わかりやすい解説
トロンプ・ルイユ
とろんぷるいゆ
trompe-l'œil フランス語
美術用語で「目だまし描法」のこと。事物を、あたかも実際にそこに存在するかのように、写実的に描く技法。したがって、写実主義絵画はすべて、遠近法・明暗・色彩などの手段で、平面上に錯視的な空間やボリュームを表現するものであるから、広い意味でのトロンプ・ルイユに属する。しかし、一般にこの用語が適用されるのは、壁画などで実際の室内空間を越えた錯視的空間を意図的に表現する場合、あるいは、浅い空間内に描かれた事物が、まるで実物そのものがそこに存在するかのように錯視させる効果を意図した作品の場合などである。
すでにギリシア絵画において、この両者の場合とも先例があったことが文献的に知られている。紀元前5世紀、アテネの「影の画家」として知られたアポロドロスApollodōrosは、舞台装置で明暗法を駆使し、背景空間が遠近法的に広がっているかのような効果をみせたといわれる。また、ローマのプリニウスはその著『博物誌』のなかで、ゼウクシスZeuxisとパラシオスParrhasiosの2人のギリシア大画家が技量を競い合ったエピソードを伝えている。すなわち、ゼウクシスは、少年の手にするブドウの房を描いたところ、鳥がそれをついばもうとし、パラシオスは、画面に垂れ幕を描いたところ、人々は間違えてその幕をあげて絵を見ようとしたので、鳥の目を「だました」前者に対して、人の目を「だました」後者の勝ちが宣言されたという。
このギリシアの伝統はローマ絵画にも受け継がれた。とくにポンペイの壁画においては、第一様式では柱廊や大理石模様などが構造的に描かれ、第二様式以降は、窓や庭が壁の外側に連続するかのような装飾的形式がなされている。
抽象的・観念的な表現を目的とした中世絵画においては、トロンプ・ルイユは無縁の技法となるが、1300年代、ジョット以降ふたたびこの技法が現れる。ジョットは、絵画の主題表現においてもイリュージョンの表現に努めただけでなく、アッシジやパドバの壁画では各情景間に軒蛇腹(のきじゃばら)を描き、また柱廊玄関や浮彫り彫刻を描いている。そして、遠近法や明暗の肉づけなどの技法が発達する一方、彫刻と表現を競おうとする画家たちの意欲もあり、さらにそれを可能とする油彩画の技法が生まれたルネサンス期になると、建築装飾においても、微細な事物の表現においても、しばしばトロンプ・ルイユの効果が用いられる。イタリアでは建築、彫刻などを装飾壁画に描き込む例が多いが、フランドル絵画では事物の触感や量感の緻密(ちみつ)な表現がなされている。17、18世紀のオランダ絵画にみられるように、壁面上に止まる鳥(カレル・ファブリティウスCarel Fabritius(1622―1654)『ひわ』、ハーグ、マウリツホイス美術館)や、テーブル上の紙など、浅い空間にボリュームの少ない事物を表現し、まるでそれらが実際に壁やテーブル上にあるかのように錯覚させる技法がもてはやされた。
バロックの装飾壁画が、建築装飾と絵画で描かれた装飾とを、ほとんど弁別のつかないものとして幻想的空間をつくりあげるのも、トロンプ・ルイユである。また、バロック絵画からゴヤがマドリードのサン・アントニオ・デ・ラ・フロリーダ教会に描いた天井画に至るまで、天井にさらにもう一つの空間があるかのように描かれた天井画も、この技法の典型的な部分である。
近代絵画はむしろトロンプ・ルイユの効果を否定する方向に進んだが、典型的には、ダリのような画家がこの効果を最大限に利用して、独自な世界を形成している。
[中山公男]