改訂新版 世界大百科事典 「イリュージョニズム」の意味・わかりやすい解説
イリュージョニズム
illusionism
造形芸術,とくに絵画において立体感や奥行きの錯覚を与える造形技法とその表現をさす。トロンプ・ルイユ(目だまし)という言葉で呼ばれることもあり,その区別は明確ではない。視覚とは眼に映るものを既得の知識,欲望,想像力などによって判断する大脳の働きであるから,知識や経験の増加によって,はじめ正常な視覚とされていたものが,のちに錯覚(イリュージョン)と判明することが少なくない。壁のしみ,雲の形,ロールシャハの性格検査図形などのあいまい図形に意味のある形を認めたり,枯尾花を幽霊と思ったりすることがあるのも,眼と大脳の積極的な合理化・体制化機能を示す一例と考えられる。
造形芸術においても,視覚機能のこのような積極性を逆に利用して実在感を与え,表現効果を強めることが古くからあった。古代ギリシア以来の西欧絵画の基本的な技法である,現実のものとの形の類似,陰影法(明暗法),遠近法などは,三次元の世界に実在するものを平面に移しこむための手段であるという意味では,イリュージョニズムの技法にほかならない。それらのすべてをここで扱うことはできないが,古代ローマの壁画や床タイルの図形に影が描かれて,地から図が浮き上がるように見えるのは標準的な陰影法の一つである。また,空間を暗示するために半分開いた扉に人物を立たせたり(ローマの石棺浮彫),枠から体の一部をはみ出させる表現(中世,近世),戸口に人物を描いたり,外へ開く窓や鏡を描くことも近世絵画における空間表現の技巧であった。ことに〈目だまし〉効果を狙ったモティーフには,素描,版画,印刷物などがしわになったりめくれて描かれたもの(15世紀以後),画中の板の文様,大理石の縞や割れ目,割れたガラス,虫くいの葉,昆虫のような偶然的なもの,彫刻や浮彫のような立体感を与えやすいものなど,広い意味での静物描写が利用されることが多く,この種の絵をふつうトロンプ・ルイユの名で呼び,18~19世紀に流行した。
一般には錯視効果が放棄された20世紀美術においても,シュルレアリスムが視覚的な想像力を拡大して現実性を与えるためにイリュージョニズムを用いた。キュビスムのパピエ・コレは,それとは気づかないでジャンルとしてのトロンプ・ルイユの伝統を復活させて実在性を強調した。オップ・アート,ポップ・アートにも種々の錯視効果は多用されている。通観すればイリュージョニズムは絵画における本質的な表現手段の一つといわなくてはならないようである。
イリュージョニズムは上記のような現実再現的表現ばかりでなく,造形表現の中で同時に混融している,観念を表す約束事としての表現(象徴,記号など)についても言うことができる。たとえば東洋の絵画にみられる上遠下近の遠近法は鳥瞰的視覚経験に基づきながら,必ずしも遠小近大を必要としない約束事に基づいている。またやまと絵の吹抜屋台や霞の使い方も約束事によって成立するものである。ビザンティンのイコンにおける正面性や金色の背景あるいは東洋画の輪郭線と平面的な採色などにも両方の要素がともに作用している。
建築と関連して絵画が錯視的な空間をつくる例は,不完全ながらポンペイの壁画中にもすでにみられるが,15世紀以後の幾何学的遠近法の適用によって,空間はより現実感を増した。それは小規模な壁面内の描写にとどまらず,広い壁面や天井画に適用された。バロック期には空間やものが,描かれたというよりもそこに現実に存在するかのように思わせる表現が少なくない。たとえば17世紀末のローマの聖イグナチオ聖堂天井画はある一点から見上げるとみごとな錯視空間を形成する。しかし遠近法を厳密に適用すれば見る側の視点は一点に限定され,そこを離れると描かれたものの形はひどくゆがんでしまう(アナモルフォーズ)。人間の両眼による距離の測定能力は10mほども離れると単眼と大差がなくなることも無視できない。建築においても,ブラマンテ,ベルニーニ,ボロミーニなどのつくった錯視的な空間は,やはり遠近法を利用したものである。オランダでは17世紀に〈のぞき眼鏡箱peep-show box〉がつくられて,小さな箱の中に広い室内の情景をつくりだした。また眼鏡絵は18世紀後半から日本でも円山応挙,司馬江漢らによってつくられたが,これはレンズを通すことによって強調された遠近法を楽しむものであった。18世紀末から,とくに19世紀中期以後のパノラマ,ジオラマはそうした視覚遊戯の発展したものであり,現在でも自然博物館で用いられている。
執筆者:坂本 満
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報