ニジンスキー(読み)にじんすきー(英語表記)Вацлав Фомич Нижинский/Vatslav Fomich Nizhinskiy

デジタル大辞泉 「ニジンスキー」の意味・読み・例文・類語

ニジンスキー(Vatslav Nizhinskiy)

[1890~1950]ポーランド系のロシアの舞踊家ディアギレフバレエリュスで活躍し、また「牧神の午後」「春の祭典」などの振り付けに才能を発揮した。

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精選版 日本国語大辞典 「ニジンスキー」の意味・読み・例文・類語

ニジンスキー

  1. ( Vaclav Fomič Nižinskij バツラフ=フォミチ━ ) ロシアの舞踊家。両親はポーランド人。ペテルブルクの帝室舞踊学校に学び、ディアギレフのロシア‐バレエ団の花形として天才を称えられた。(一八八八‐一九五〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ニジンスキー」の意味・わかりやすい解説

ニジンスキー
にじんすきー
Вацлав Фомич Нижинский/Vatslav Fomich Nizhinskiy
(1890―1950)

ロシアのバレエ・ダンサー。両親はポーランド人の舞踊家で、公演先のキエフ(現、キーウ)で3月12日(露暦2月28日)に生まれる。サンクト・ペテルブルグの帝室舞踊学校を卒業、マリンスキー劇場の団員となる。1909年パリで旗揚げしたディアギレフのロシア・バレエ団(バレエ・リュス)に参加、同年『アルミードの館(やかた)』『レ・シルフィード』、1910年『シェヘラザード』、1911年『バラの精』『ペトルーシュカ』などを踊って絶賛を博した。また、1912年『牧神の午後』、1913年『遊戯』『春の祭典』を自ら振付け上演。1913年の南米巡業中にロモラと結婚したため、ディアギレフの怒りを買い解雇されるが、1916年には復帰してアメリカで踊り、『ティル・オイレンシュピーゲル』を振付けた。1917年ブエノス・アイレスでの舞台を最後に同バレエ団との関係を絶ち、スイスに落ち着いたが、1919年に「精神分裂病」(現在の統合失調症)と診断され、その後療養のため各地を転々とし、1950年4月8日ロンドンに没した。

 ニジンスキーは20世紀におけるもっとも衝撃的なダンサーといわれる。彼の跳躍力はすばらしく、『バラの精』を踊ったとき、跳ぶと二度地上に戻ってこないのではないかとか、空気は重く肉体は軽いなどといった神話化された賛辞が捧(ささ)げられた。男性的な官能性、野獣性も彼の特徴で、『シェヘラザード』の金の奴隷などはその例である。振付け作品の『牧神の午後』『春の祭典』は、得意な跳躍をまったく使わず、しかもバレエの古典技法を無視したもので観客を驚かせた。

 著書に病気の初期に書かれた『ニジンスキーの手記』があり、妻ロモラは『ニジンスキー』を著した。彼をテーマにした舞踊作品に、M・ベジャールの『ニジンスキー神の道化』、L・ケンプの『ニジンスキー』、映画にH・ロス監督『ニジンスキー』(1982)がある。

市川 雅]

『市川雅訳『ニジンスキーの手記』(1971・現代思潮社)』『R・ニジンスキー著、市川雅訳『その後のニジンスキー』(1977・現代思潮社)』『石福恒雄著『ニジンスキー』(1979・紀伊國屋書店)』

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百科事典マイペディア 「ニジンスキー」の意味・わかりやすい解説

ニジンスキー

ポーランド系のロシアの舞踊家。妹のニジンスカも舞踊家。ペテルブルグの帝室舞踊学校在学中にマリインスキー劇場の舞台に立ち,1907年に正式のバレエ団員となる。のち,ディアギレフと知り合い,1909年〈バレエ・リュッス〉のパリ旗揚げ公演に参加。《レ・シルフィード》《シェエラザード》など多くの作品を踊り,人気を得る。特に《薔薇の精》における跳躍,《ペトルーシカ》での演劇的な役づくりは多くの伝説を生み,不世出の男性舞踊家といわれる。振付にも才能を発揮し,ドビュッシー曲の《牧神の午後》(1912年),ストラビンスキー曲の《春の祭典》(1913年),R.シュトラウス曲の《ティル・オイレンシュピーゲル》(1916年)などの作品がある。1916年ごろから精神分裂病の傾向を見せはじめ,舞台を退き,ヨーロッパ各地のサナトリウムで療養する。
→関連項目スペシフツェワチェケッティマシン

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改訂新版 世界大百科事典 「ニジンスキー」の意味・わかりやすい解説

ニジンスキー
Vaslav Nijinsky
生没年:1889-1950

ポーランド系のロシアの舞踊家。両親も舞踊家で,公演旅行中のキエフで生まれた。1898年ペテルブルグ帝室舞踊学校に入学するが,入学試験のときから試験官を驚かすほどの才能を示した。1907年卒業後,ディアギレフに見いだされ,09-13年バレエ・リュッスに参加,古典舞踊の基礎の上に深い詩情をたたえて表現した《レ・シルフィード》(1909),その異国的風貌とほとばしり出るすさまじい活力を生かした《シェーラザード》(1910),バレエの演劇性に対する鋭い洞察を示した《ペトルーシカ》(1911)などにより,天才舞踊家の名をほしいままにした。《ばらの精》(1911)で見せた高い跳躍は空前といわれ,多くの伝説を生んだ。12年自作自演した《牧神の午後》(音楽はドビュッシーの《牧神の午後への前奏曲》)では古典舞踊の法則をすべて無視し,得意の跳躍をいっさい排した作風が論議をよび,続けて《遊戯》(ドビュッシー,1913),《春の祭典》(ストラビンスキー,1913)も大きな反響を呼んだ。13年ディアギレフに無断で結婚したためバレエ・リュッスを追われるが,16年の同座のアメリカ公演の際一時復帰した。第1次世界大戦末より精神病をわずらい,舞台から退きスイスで治療,第2次世界大戦の終結とともに回復へ向かう。ロンドンで死ぬ前にほぼ常態に復した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ニジンスキー」の意味・わかりやすい解説

ニジンスキー
Nizhinskii, Vatslav Fomich

[生]1890.3.12. キエフ
[没]1950.4.8. ロンドン
ポーランド系ロシア人の舞踊家,振付師。ペテルブルグの帝室舞踊学校に学び,1905年『パ・ド・カトル』でデビュー。 09年 S.ディアギレフのバレエ・リュスに参加,『アルミードの館』『ばらの精』『レ・シルフィード』『シェエラザード』『ペトルーシカ』を踊った。その高い跳躍で「舞踊の神」とたたえられたが,さらに彼の名を不滅にしたのは自身の作品『牧神の午後』 (1912) で,まれにみる官能性によってパリの人々を論争の渦に巻込み,それまでの女性中心のバレエに男性舞踊手の優秀性を認識させ,その地位を確立した。『春の祭典』を振付けた翌 13年,結婚によりディアギレフとの関係が不仲となり脱退。 16年同団のアメリカ公演の際,一時的に復帰して『ティル・オイレンシュピーゲル』を振付けたが,この頃から次第に精神病が悪化し,スイスで療養したがついに癒えなかった。この事情は妻が書いた『ニジンスキー』 Nijinsky (33) や,『ニジンスキーの手記』 The Diary of Vaslav Nijinsky (36) に詳しい。

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世界大百科事典(旧版)内のニジンスキーの言及

【精神分裂病】より

…現存在分析を創始したスイスの精神医学者ビンスワンガーの主著で,1957年に単行本の形で刊行された。5例の精神分裂病のくわしい症例研究からなるが,30年代に著者が独自の人間学的方法を確立したのち,数十年にわたる臨床活動の総決算として44年から53年にかけて集成したもの。ここでは,分裂病は人間存在に異質な病態としてではなく,人間から人間へ,現存在から現存在への自由な交わりをとおして現れる特有な世界内のあり方として記述される。…

【春の祭典】より

…ストラビンスキーとN.レーリヒによるバレエの筋書は,ロシアの異教徒が,春の神の心を静めるために一人の処女を犠牲者にするというもの。1911年から13年にかけておもにスイスのクラランで作曲され,13年5月29日パリのシャンゼリゼ劇場のバレエ・リュッスの公演で,ニジンスキーの振付,P.モントゥーの指揮によって初演され,20世紀音楽史上最も有名なセンセーションを巻き起こした。膨大な編成のオーケストラが,複調や無調による激しい音響をつくり出し,拍子が,3/16,5/16,4/16と小節ごとに変化して複雑なリズム構造を生み出す。…

【バレエ・リュッス】より

…このとき上演された《アルミードの館》《レ・シルフィード》《クレオパトラ》などは,その具体例であって,19世紀的なものからの完全な脱却ではないが,技巧に走ることを慎み,19世紀のバレエの常套的衣装をできるだけ避けるなどの改革が示された。また当時ロシアのみに保たれていた厳格な古典舞踊教育機関(ペテルブルグ帝室マリインスキー劇場舞踊学校)の養成したA.パブロワT.P.カルサビナニジンスキーの演技はパリの観衆に熱狂的に迎えられた。さらにボロジンのオペラ《イーゴリ公》第2幕における男性舞踊手群の勇壮な戦士の踊りが,この公演を決定的なものとした。…

【ペトルーシカ】より

…雪におおわれたペテルブルグの見世物小屋での出来事,人間の魂を与えられた三つの人形,ペトルーシカ,踊り子,ムーア人の恋の葛藤を描く。ペトルーシカを踊ったニジンスキーのすばらしい演技で大成功をおさめた。日本初演は1950年小牧バレエ団によって行われた。…

【牧神の午後への前奏曲】より

…初演は,同年12月22日,サル・ダルクールでG.ドレの指揮によって行われた。バレエ・リュッス(ニジンスキー振付)によるバレエとしての初演(1912年5月29日)は,センセーショナルな話題を集めた。ドビュッシーは初演のときのプログラムに次のように書いている。…

【モダン・バレエ】より

…クラシック・バレエでは女性の主役が中心だったが,モダン・バレエではそれが対等に行われ,男性を中心にしたものもつくられた。1909年以降のディアギレフのバレエ・リュッスにおいて顕著にその傾向があらわれ,その先鞭をつけたのはM.フォーキンV.ニジンスキーの作品である。バレエ・リュッス後期に登場したG.バランチンS.リファールはその後アメリカやフランスで新しい思考によるバレエをつくった。…

※「ニジンスキー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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