改訂新版 世界大百科事典 「ハイドゥク」の意味・わかりやすい解説
ハイドゥク
haiduc
オスマン帝国のヨーロッパ支配地域,とくにバルカン地方の義賊。所によって名称は異なり,ハイドゥーhajdú(ハンガリー語),ハイドゥクhaiduc(セルビア語,ルーマニア語),クレフテスkléftis(ギリシア語)等と呼ばれたが,その活動の時期はほぼオスマン帝国支配の時期に一致する。
バルカンに数多く伝わるハイドゥク伝説によれば,生活の貧苦やトルコ人の暴虐に耐えかねて村を出た彼らは山地にこもって匪賊集団(たいてい10~80人程度)を形成した。彼らは不文律の厳しい掟にしたがい,頭目(セルビア語ではハランバシャharambaşa,ブルガリア語ではボイボダvoivoda,ギリシア語ではカピタンkápitanと呼ばれた)を選出し,新成員は入団の際に同志の誓いを立てた。彼らの活動が盛んになる17~18世紀にはスターラ・プラニナ山脈やロドピ山脈をはじめバルカンのほとんどすべての山々にハイドゥクの姿が見られ,キャラバンや旅行者を山道で襲ったり,ときには町へ侵入して代官や商人の館を襲撃したりした。ふつう彼らの活動は春から秋までに限られ,冬は村に帰って生活したが,彼らは略奪品を貧しい人々に分かち与え,また山中の孤独な生活に耐えるには超人的力量が要求されたから,圧政に苦しむ民衆にとって英雄的シンボルとなった。また1804年のセルビア蜂起のカラジョルジェ,1821-29年のギリシア解放戦争のコロコトロニスのように,バルカンの民族運動の初期にはハイドゥクが軍事的指揮能力を発揮したケースも多かったので,民権運動の先駆者ともみなされるようになった。
しかし史実に即していえば,本来匪賊と義賊(ホブズボームのいう社会的匪賊)の区別はさほど判然としたものではなく,農民がその被害者となる事例も多かった。またハイドゥクがこの地域に特殊な現象として現れた歴史的背景を考えると,15世紀以降オスマン帝国において遊牧経済が復活し,ハイドゥクの語源といわれるハンガリー語のハイトーhajtóが家畜飼育者を意味するように,自己防衛手段をもち移動的性格をもった遊牧民がハイドゥクになる場合が多かった。また遊牧民が主として国境や要路の警備にあてられたという社会的側面(彼らは警備の代償として一定の社会的特権を与えられたが,彼らが匪賊に転じたケースも多かった)も重視しなければならず,ハイドゥクがオスマン帝国の農村支配に寄生していた面もみられる。ハイドゥクの活動を単に反オスマン的な運動としてとらえることには問題がある。
執筆者:萩原 直
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報