ローマ皇帝。在位138-161年。五賢帝の一人。ローマ近郊の名家の出で順調に昇進し,ハドリアヌスの顧問団の一員となる。その末年から実権を委ねられ,先帝の死後跡を継ぐ。元老院に説いてハドリアヌスを神として祀(まつ)ったので〈ピウス(敬虔なる者)〉との称をえた。政府権力の強化につとめたが元老院とは協調し,国民には贈与金を与え,貧窮子女のための給費制度をも設けた。ローマとイタリアを重視し,彼自身統治中一度もイタリアを離れなかった。帝国内駅逓制を整え公共建築もすすめたが,冗費節約につとめ死後国庫に多額の財産をのこした。臣下にはきびしく接したが,裁判では寛大で,キリスト教徒への迫害をも緩和した。対外的にも和平を旨とし,ブリタニアではハドリアヌスの城壁の北方に新たに城壁を設けた(アントニヌスの城壁)。穏健・質実な姿勢は国民から尊崇され,彼と妻の大ファウスティナのためにローマのフォルムに神殿が建てられた。
執筆者:松本 宣郎
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ローマ皇帝(在位138~161)。五賢帝の4番目の皇帝。執政官級の貴族の家系に生まれ、財務官、法務官を務めた後、34歳で執政官となった。小アジアの総督として名声を博し、ハドリアヌス帝の顧問団に加えられた。篤実な人柄のゆえに同帝の信任も厚く、その後継者として養子に迎えられた。同帝の死後、元老院は「敬虔(けいけん)な」Piusという称号を与えて新帝をたたえている。
彼の治世は、賞与金の施与、扶養基金の設定、属州の財政負担の軽減が果たされるなかで、公費の節約や規律の遵守が徹底するという、まさしく「ローマの平和」に名実ともにふさわしい時代であった。しかし、元老院との協調関係が重視された反面で、行政機構における中央集権化が進展していたことは見過ごせない。死後は万人の称揚するところに従って神格化され、記念碑や神殿が建てられた。
[本村凌二]
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86~161(在位138~161)
ローマ皇帝。五賢帝のうちの第4番目。ハドリアヌス帝の養子となり,帝位を継ぐ。ピウス(敬虔な)の称号は元老院から贈られたもの。その治世はローマ帝国史上の最も平穏な時期とみられる。
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…2世紀のローマ皇帝アントニヌス・ピウス,マルクス・アウレリウス,コンモドゥスを輩出した帝室の家系(138‐192)。ピウス帝は先帝ネルウァ,トラヤヌス,ハドリアヌスの例にならってマルクスを養子に迎え帝位を継承させたが,マルクス帝は実子コンモドゥスを後継者に指名した。…
…以後,皇帝は最善の人が統治者たるべきであるとするストア哲学の考えに従って後継者を選び,その者を養子とした。トラヤヌス,ハドリアヌス,アントニヌス・ピウス,マルクス・アウレリウスと続く治世には,元老院との協調を旨とし属州行政も整備されて,〈パクス・ローマーナ(ローマの平和)〉と呼ばれる繁栄期が訪れた。啓蒙主義時代の歴史家ギボンは,五賢帝の時代を人類史上最も幸福なる時代と語っているが,近年の歴史研究の教えるところでは,肥大化する官僚・軍事機構の財政的負担が,地方都市の有産者層の財力によってかろうじて支えられることのできた時期であり,しだいに政治,経済,社会の諸問題が顕在化してきた時代と言える。…
※「アントニヌスピウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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