改訂新版 世界大百科事典 「バーミヤーン」の意味・わかりやすい解説
バーミヤーン
Bāmiyān
アフガニスタンの中央部,ヒンドゥークシュとコーヒバーバー両山脈の間の東西に長い渓谷中にあり,北はアフガン・トルキスタン(アフガニスタンのうち,ヒンドゥークシュ山脈以北の地域)から中央アジア,東や南はインドに通じ,両世界の接点に位置した。現在はハザラジャートの東の入口に当たる寒村にすぎないが,バーミヤーン川とその支流によって造成されたレキ岩台地の崖面に1kmにわたって,約1000の6~9世紀の仏教石窟が残り,なかでも中心部石窟群の東と西とにそれぞれ38mと55mの大仏立像を彫り出した巨大な龕(がん)は古来有名である(2001年夏,この石仏2体はイスラム原理主義を標榜する政治集団ターリバーンによって爆破された)。バーミヤーンの歴史はあきらかでないが,《魏書》《北史》に范陽,《隋書》に范延,《新唐書》に望衍とみえ,玄奘は梵衍那,慧超は犯引と記しており,5~6世紀には中国にも名称,所在が知られたらしい。中世ペルシア語ではバーミカーンといい,10世紀のペルシア語地理書にバーミヤーンとみえて中国の呼称と符合している。またアラブ史書にみるラフーンLaḥūnは,《新唐書》の望衍の都である羅爛と対応しよう。10世紀ころその都はバルフと同じ規模を誇ったが,13世紀初めにチンギス・ハーンによる徹底した破壊をこうむった。7世紀初めに玄奘はその仏教文化の隆盛を仏寺数十,僧徒数千と伝え,小乗の説出世部に属したという。また二大立仏のほか,涅槃(ねはん)の巨像の存在ものべているが,今は湮滅(いんめつ)している。二大仏はレキ岩を粗彫した上に,すさ混じりの泥土で彫塑を付加し,化粧がけして金彩色を施していた。天井や側壁にはフレスコ画を描く。東龕には太陽神と供養者をササン風を受けた描法で描き,西龕には仏,菩薩,天人,供養者など混然一体となった大構図をグプタ風を受けた筆致で描き,いま双方とも一部が残る。石窟形式は正方・八角・円形プランをとり,ドーム,三角持送り,格天井,あるいはその組合せを架す建築を模した尊像窟と簡素な構造の僧房窟がみられ,尊像窟には千仏図,弥勒・涅槃図,塔の壁画がある。
執筆者:桑山 正進
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報