百科事典マイペディア 「パンクハースト」の意味・わかりやすい解説
パンクハースト
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パンクハースト
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パンクハースト
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イギリスの戦闘的な女性参政権運動の代表者。やはり女性参政権論者で既婚女性財産法を起草した夫リチャード(1834―1898)の死後、娘クリスタベル(1880―1958)らと女性社会政治同盟を設立(1903)。これには労働者階級の女性も加わり、ことばでなく行動することをモットーに、世の関心をひくような演説妨害、破壊活動、ハンストなど激しい手段をとり、彼女自身も投獄された。彼女を中心とする運動家たちはサフラジェットsuffragette(過激な女性参政権運動家の意)として知られ、彼女はアメリカ、カナダ、ロシアで女性問題についての講演をするなど海外でも活躍した。1928年その死の数週間前に男女平等の選挙権が実現した。
[白井 厚]
『パンクハースト著、平井栄子訳『わたしの記録』(1975・現代史出版会)』
イギリスの婦人参政権運動家,社会改革家,画家。エメリン・パンクハーストの次女。1903年創設の婦人参政権団体〈女性社会政治同盟〉の一支部〈イースト・ロンドン連盟〉を率いる。母と姉の指導する運動はしだいに初期の労働者階級とのつながりを断ち切っていったが,彼女は終始一貫社会主義を奉じて,ロンドンの下層階級女性の間で組織的な活動を続け,のち姉により同盟を放逐された。第1次大戦勃発後の対応のしかたも母や姉とは対照的で,反戦活動を行うとともに労働婦人の立場からの婦人参政権運動を継続した。ロシア革命を支持し草創期のイギリス共産党の重要メンバーとなる。ファシズムに激しく反対。のちエチオピアに移住。
執筆者:河村 貞枝
イギリスの婦人参政権運動家。マンチェスター生れ。1879年,急進主義者の弁護士リチャード・パンクハーストと結婚。夫と死別(1898)後,救貧委員や戸籍吏などを務めるが,1903年に娘らと婦人参政権獲得を目ざして〈女性社会政治同盟Women's Social and Political Union〉を組織。まもなくロンドンに本部を移し,従来の穏健派の組織とは異なる種々の戦闘的ゲリラ戦術を展開し,衆目を引きつけた。だが,第1次大戦勃発とともに極端な愛国主義に走った。なお,婦人参政権は大戦中の女性の役割が高く評価されて18年に一部(30歳以上)実現した。
執筆者:河村 貞枝
イギリスの婦人参政権運動家。エメリン・パンクハーストの長女。1903年に創設された戦闘的婦人参政権団体〈女性社会政治同盟〉の事実上の独裁的指導者。投獄を逃れて1912年以後はパリで作戦指揮に当たり,母と彼女を信奉する少数精鋭の〈サフラジェット(婦人参政権論者)〉による放火などのゲリラ戦術を展開。彼女の指導下で同盟は男性の組織との協働を拒み,性戦争の様相を強めた。第1次大戦勃発とともに帰国,母と同様愛国主義に走る。同盟は〈女性党〉と改称され,19年には解体・消滅した。
執筆者:河村 貞枝
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…そして同年,女性は地方自治体の選挙権を,70年に教育委員会の選挙権を獲得した。 婦人参政権に対する政府の頑迷な姿勢が続くなかで,運動は二つに分裂し,97年にはM.G.フォーセットを中心に〈婦人参政権協会全国同盟National Union of Women’s Suffrage Society(NUWSS)〉が,1903年にはE.パンクハーストとその娘クリスタベルが指導する〈女性社会政治同盟Women’s Social and Political Union(WSPU)〉がマンチェスターに結成された。前者の女性はサフラジストsuffragistとよばれ,穏健な運動を,後者はサフラジェットsuffragetteとよばれ,戦闘的運動を展開した。…
※「パンクハースト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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