ピンクニー
Thomas Pinckney
生没年:1750-1828
ピンクニー
Charles Pinckney
生没年:1757-1824
アメリカの政治家。サウス・カロライナのプランター出身。独立革命に参加。1784-87年連合会議議員。合衆国憲法制定会議でサウス・カロライナ代表として強力な中央政府を主張し,また権利章典も提案した。フェデラリスツのサウス・カロライナ州知事(1789-92),のち態度を変えリパブリカンズの同州知事(1796-98,1806-08)と連邦上院議員(1798-1801)となる。スペイン駐在公使(1801-05)としてルイジアナ購入交渉に成功し,連邦下院議員(1819-21)としてミズーリ協定に反対した。
執筆者:武則 忠見
ピンクニー
Charles Cotesworth Pinckney
生没年:1746-1825
アメリカの政治家。サウス・カロライナ出身。チャールズ・ピンクニーの従兄。同植民地議会議員から独立革命に参加し,ワシントンの副官となり,1783年准将に昇任。合衆国憲法制定会議ではサウス・カロライナ代表として,議員割当基準に奴隷人口の5分の3の算定と,1808年まで奴隷制に介入できないことを強く主張した。1796年に駐仏公使に任命されたが,フランスは着任を拒否。97年に対仏交渉のため派遣され,フランス官吏のわいろ要求を拒否して帰国したXYZ事件で一時対仏緊張を生じさせた。1800年にはフェデラリスツの副大統領候補,04年と08年には同党の大統領候補に指名されたが当選しなかった。
執筆者:武則 忠見
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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ピンクニー
Pinckney, Charles
[生]1757.10.26. サウスカロライナ,チャールストン
[没]1824.10.29. サウスカロライナ,チャールストン
アメリカの政治家,外交官。独立革命期にはイギリス軍に捕えられ投獄された。 1784~87年大陸会議へのサウスカロライナ代表。 87年の合衆国憲法制定会議に参加し,いわゆる「ピンクニー案」を起草。 89~92年サウスカロライナ州知事。 91年には連邦派から T.ジェファーソンのリパブリカンズ (共和派) へ移る。 96~98,1806~08年同州知事。その間 1798~1801年連邦上院議員。 01~05年スペイン駐在大使としてルイジアナ購入の交渉にあたり成功した。 19~21年連邦下院議員としてミズーリ協定の奴隷制制限条項に強く反対。州政治では白人成年男子の普通選挙を主張した。
ピンクニー
Pinckney, Charles Cotesworth
[生]1746.2.25. サウスカロライナ,チャールストン
[没]1825.8.16. サウスカロライナ,チャールストン
アメリカの法律家,軍人,政治家,外交官。サウスカロライナ植民地議会議員。独立戦争では G.ワシントン将軍の副官をつとめ,准将にまで昇進。 1787年合衆国憲法制定会議では従弟の C.ピンクニーとともに活躍。 96年フランス駐在公使に任命されたがフランスより着任を拒否され,翌 97年 J.マーシャルらとともに外交使節として再びフランスを訪れた。このとき,フランス側から賄賂などを要求されたがそれを退けて帰国,XYZ事件として有名になった。 1800年に連邦派副大統領候補,04,08年同大統領候補に指名されたが当選しなかった。
ピンクニー
Pinckney, Thomas
[生]1750.10.23. サウスカロライナ,チャールストン
[没]1828.11.2. サウスカロライナ,チャールストン
アメリカの政治家,外交官。独立戦争に参加後,1787~89年サウスカロライナ州知事,同州の憲法批准会議議長,92~96年イギリス駐在大使。 95年スペインへ特使として派遣され,ピンクニー条約を締結。 96年連邦派副大統領候補となったが落選。 97~1801年連邦下院議員。アメリカ=イギリス戦争 (1812) では陸軍少将として南東部で活躍。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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ピンクニー
生年月日:1757年10月26日
アメリカの政治家
1824年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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