改訂新版 世界大百科事典
「ファンタンラトゥール」の意味・わかりやすい解説
ファンタン・ラトゥール
Henri Fantin-Latour
生没年:1836-1904
フランスの画家。グルノーブル生れ。肖像画家の父から絵の手ほどきをうけたのち,ルーブル美術館でベロネーゼ,ファン・デイク,ワトーらに啓発される。印象派とも交際したが,作風は伝統的な手法を堅持,印象派展にも参加しなかった。当時最も人気を博した彼の作品は花の静物で,これらはフランスのみならず彼が何回か訪れたイギリスでも高く評価された。肖像画家としても知られるが,《ドラクロア頌》(1864),マネとその仲間たちを描いた《バティニョールのアトリエ》(1870)などは,形式的には17世紀オランダの集団肖像画につながり,穏健な作風を示す。音楽家のワーグナーを崇拝し,楽劇に取材した作品も残す。
執筆者:千足 伸行
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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ファンタン・ラトゥール
ふぁんたんらとぅーる
Henri Fantin-Latour
(1836―1904)
フランスの画家。グルノーブル生まれ。地方の肖像画家として名声のあった父から手ほどきを受け、家族とともにパリに出、1851年にはルコック・ド・ボワボードランのアトリエに入った。同時にルーブルで模写を行う。同年輩のマネやホイッスラーら当時の前衛の画家たちと親交をもち、カフェ・ゲルボアの仲間に加わってもいる。彼の作品は次の三つのグループに分けられる。第一は花や果物などの静物画で、その精緻(せいち)な描写により当時収集家の間でもっとも人気が高かった。第二は17世紀オランダにその源をもつ団体肖像画で、64年の『ドラクロワ礼賛』、69~70年の『バティニョルのアトリエ』、72年の『テーブルの一隅』などの代表作がある。こうした写実的作品に対し第三のグループは、シューマン、ベルリオーズ、ワーグナーなどロマン派音楽の作品から想を得たもので、ロマン主義的、象徴主義的色彩を色濃くとどめている。彼は、19世紀後半における写実主義の展開とロマン主義の継承という点で、重要な役割を演じた。オルヌ県ビュレで没。
[大森達次]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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「ファンタンラトゥール」の意味・わかりやすい解説
ファンタン・ラトゥール
フランスの画家。グルノーブル生れ。肖像画家の父に学んだのち,ルーブル美術館で古典を模写した。マネ,ホイッスラーら印象派の画家と交わる一方,クールベの影響を受け,写実的な肖像画や花の絵を描いた。代表作に《ドラクロア礼讃》(1864年,オルセー美術館蔵),《バティニョールのアトリエ》(1870年,同美術館蔵)などがある。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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ファンタン=ラトゥール
Fantin-Latour, Ignace-Henri-Joseph-Théodore
[生]1836.1.14. グルノーブル
[没]1904.8.25. ブーレ
フランスの肖像画,静物画家。パステル画家の父に絵の手ほどきを受けたのち,L.ボワボードランに師事。 1861年以後サロンに出品,63年の落選展にも参加。晩年にはワーグナーやベルリオーズの音楽に心酔し,そこから想を得て幻想的な作品を制作した。主要作品はモネ,マネ,ルノアール,E.ゾラの集団の肖像を描いた『バティニョールのアトリエ』 (1870,オルセー美術館) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のファンタンラトゥールの言及
【リトグラフ】より
…70年代にはマネ,ホイッスラー,ルドンらが画家の独創性を発揮した質の高い転写石版画を制作し,新たな可能性を示したが,これは個人的・趣味的制作にとどまり,依然として同時代の評価は低かった。大衆的に成功したのはファンタン・ラトゥールのみであった。 こうした石版の沈滞を打破したのは,80年代末のシェレJules Chéret(1836‐1931)による大型の色刷ポスターである。…
※「ファンタンラトゥール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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