プロイセン国王(在位1740~86)。啓蒙(けいもう)絶対主義を代表する名君で「大王」der Großeといわれる。幼少時より文芸、音楽に親しみ、フランスの啓蒙思想の影響を強く受けた。父の「軍人王」フリードリヒ・ウィルヘルム1世とは折り合いが悪く、イギリスに逃亡を企てて逮捕されたこともある。彼が即位前に著し、ボルテールの助力を得て即位の年(1740)に出版した『反マキャベッリ論』には「君主は人民の第一の下僕」とあり、これは啓蒙絶対主義の理念を示すことばとして有名になった。
しかし、即位後の治世は戦争に次ぐ戦争である。まず2回にわたるシュレージエン戦争(1740~42、1744~45)でオーストリアからシュレージエンを奪取。これによりオーストリア女帝マリア・テレジアの恨みを買い、オーストリアがフランス、ロシアと結んでプロイセン包囲網をつくると、1756年先手を打って戦いを仕掛け、以後63年までの7年間、ほとんど全ヨーロッパ列強を相手に勇戦し(国民人口からすると500万人対9000万人の戦いであった)、何度も窮地に陥りながら耐え抜いてシュレージエンを確保した。しかし戦争で受けた国の被害は大きく、以後国王は、外交的には現状維持を図りつつ、国力の回復と増強のために国民に率先して働いた。起床は夏は4時、冬でも5時で、1日のうち国務に10時間、読書と著述に4時間、社交と音楽に2時間をあてるのが日課であった。彼の施政では、言論・信教の自由の承認や法典の編纂(へんさん)事業などに啓蒙主義者としての面目が現れ、また国内の開拓や植民、農法の改善や産業振興策にもみるべきものがあるが、経済政策は概して重商主義の枠内にとどまり、また社会の身分制的編成を擁護し、貴族を偏重するなど、啓蒙主義者らしからぬ面もあった。しかしともあれ彼はその治世の間、シュレージエン獲得のほか、第一次ポーランド分割(1772)によって国土を大幅に拡大するとともに、父親から受け継いだ700万ターラーの国庫準備金を5000万ターラーに増やした。
フランス文化の心酔者であった彼は、即位後ベルリン近郊のポツダムにロココ風の宮殿を造営、これを「サン・スーシ(無憂)宮」と名づけて、ここで政務のかたわらボルテールなど彼が招いたフランス文人との交遊を楽しんだ。「サン・スーシの哲学者」とよばれたように当代一流の文化人だったが、ドイツ文化に対する理解は乏しかった。
[坂井榮八郎]
『ディルタイ著、村岡晢訳『フリードリヒ大王とドイツ啓蒙主義』(1975・創文社)』▽『村岡晢著『近代ドイツの精神と歴史』(1981・創文社)』
シュタウフェン朝2代目のドイツ国王(在位1152~90)、神聖ローマ皇帝(1155~90)。バルバロッサBarbarossa(赤髯(あかひげ)王)とよばれる。叔父コンラート3世の死後、後継国王に選ばれた。叙任権闘争以後弱体化したドイツ王権の強化を目ざし、とくに崩壊に瀕(ひん)したイタリアにおける支配権を再建すべく、精力的にイタリア政策を展開した。最初のイタリア遠征(1154~55)で皇帝として戴冠(たいかん)を受けたのち、ブルグント王国の相続人ベアトリクスと結婚(1156)、王国をふたたび帝国に編入し、さらに1158年から83年まで5回に及ぶイタリア遠征を行ったが、ロンバルディア都市同盟、教皇、これを支援するシチリア王国の頑強な抵抗を受け、レニャーノの戦い(1176)で決定的敗北を喫し、和解を余儀なくされた。その際彼は巧みな外交手腕を示し、イタリアにおける皇帝の宗主権を承認させ、息子ハインリヒとシチリア王女コンスタンツェの結婚を実現させるのに成功した。国内では、シュワーベンを中心に多くの帝国直轄領を創設し、各地に都市建設を行って王権の経済的基礎を固め、他方巧みに国内諸侯の勢力均衡を図りながら、国王を頂点とする封建的ヒエラルヒーに組み込んでいく政策を遂行した。最大の対抗勢力、ウェルフ家のザクセン大公ハインリヒ獅子(しし)公に対し、前王が没収したバイエルン大公領を返還、和解を図ると同時に、その一部をオーストリア大公領としてバーベンベル家に授封した。さらに、獅子公がザクセン領内で紛争を起こし、訴えられた機会をとらえて、失脚させるのに成功し、没収した大公領を解体・分割して諸侯に授封した。かくしてシュタウフェン朝の支配権を確立したのち、第3回十字軍に従軍したが、途中小アジアで水浴中溺死(できし)する非運にみまわれた。
[平城照介]
シュタウフェン朝のドイツ国王(在位1212~50)、神聖ローマ皇帝(1220~50)。皇帝ハインリヒ6世とシチリア王女コンスタンツェの息子。父帝が若死にしたため(1197)、シチリアの母后のもとで育てられた。母后は息子のドイツ王位継承権を放棄、シチリア王として即位させ、教皇インノケンティウス3世を後見人に選んだ。だがウェルフ家のドイツ国王オットー4世がイタリアに勢力を伸ばし、教皇と争うに至り、1211年教皇はフリードリヒを対立国王に推し、翌年フリードリヒはドイツに赴き、シュタウフェン派諸侯に支持されてアーヘンで即位式をあげ、フランス国王フィリップ4世と結んでオットー4世を破り、支配権を確立した(1214)。しかしフリードリヒ2世の主要な関心はシチリア王国の経営に向けられ、それに専心すべくまもなくイタリアに帰還(1220)、ドイツの統治は息子のハインリヒ、ついでコンラートにゆだね、その結果、ドイツ国内の諸侯に大幅な譲歩を余儀なくされ、二度(1220、32)にわたり「協約」を結んで聖俗諸侯に多くの特権を与えた。他方シチリア王国では着々と近代的統治機構を整え、学芸を奨励して、後世の歴史家から「王座の上の最初の近代人」と称賛されたが、十字軍に不協力のかどで教皇から破門され、以後教皇との確執に悩まされた。1228年独力でエルサレム遠征を行い、帰国後、一時教皇と和解したが、ふたたび教皇と結んだロンバルディア諸都市と争い、息子ハインリヒにも背かれ、リヨン公会議で皇帝廃位を宣言され(1245)、その死とともにシュタウフェン王朝は事実上崩壊した。
[平城照介]
ドイツの画家。9月5日グライフスワルトに生まれ、1794~98年コペンハーゲンの美術学校に学ぶ。以後ドイツ・ロマン派の拠点ドレスデンに定住して、画家オットー・ルンゲ、詩人ノバーリス、ティーク、ノルウェーの画家ヨハン・クリスティアン・ダール、医者で画家のカール・グスタフ・カールースらと同志的な交わりを結ぶ。1807年木版および素描(セピア画)から油彩に転じ、風景とロマン派的な宗教感情を融合した『山の十字架』(ドレスデン絵画館)を描いて独得の画風を確立する。24年以後はドレスデン美術学校教授を務めた。彼は「風景における悲劇の発見者」といわれ、主として北ドイツの荒涼とした原野や森や廃墟(はいきょ)やフィヨルドの眺望を、旅愁、憧憬(しょうけい)、悲哀などの情感を込めて描き、ドイツ・ロマン派最大の風景画家とされる。40年5月7日ドレスデンで死去。代表作に『海辺の僧侶』(ベルリン国立美術館シャルロッテンブルク宮殿)、『ウァッツマン山』(ドレスデン絵画館)、『希望号の難破』(ハンブルク美術館)などがある。
[野村太郎]
ハプスブルク家のドイツ国王(在位1314~30)。オーストリア大公としてはフリードリヒ3世(在位1308~30)。端麗な容姿のため「美王」とよばれた。ドイツ国王アルブレヒト1世の息子。ルクセンブルク家のドイツ国王ハインリヒ7世の死後、選帝侯は二派に分かれ、一方はウィッテルスバッハ家のルートウィヒ4世を、他方はフリードリヒを国王に選んだ(1314)結果、両者は王位をめぐって長期間争うことになった。1322年ミュールドルフの戦いでフリードリヒは決定的に敗北、捕虜となったので、ルートウィヒの単独支配が実現した。ルートウィヒが教皇と争い、皇帝戴冠(たいかん)を目ざしてイタリア遠征を行ったのち、フリードリヒは釈放され、共同統治権を認められた。
[平城照介]
ザクセン選帝侯(在位1486~1525)。賢公der Weiseとよばれる。人格高潔で識見も高く、ドイツ諸侯中で重きをなした。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の死後、皇帝選挙で皇帝に推されたが辞退し、カール5世の選出を援助した。ウィッテンベルク大学を創設(1502)、ルター、メランヒトンを招き、その結果、同大学を宗教改革の拠点たらしめることになった。ルターの改革が起こると、顧問官シュパラティンの助言を受けて、保護の立場をとり、1521年ウォルムス国会でルターが帝国追放を宣せられると、彼をワルトブルク城にかくまった。宗教的にはカトリック信仰に厚く、聖遺物収集家として知られたが、死の直前、新教に改宗した。
[瀬原義生]
初代プロイセン国王(在位1701~13)。1688年、父の「大選帝侯」フリードリヒ・ウィルヘルムからブランデンブルク選帝侯国とプロイセン公国を相続し、当初、選帝侯フリードリヒ3世と名のったが、1700年神聖ローマ皇帝からプロイセンについて国王の称号を許され、翌年プロイセン国王フリードリヒ1世としてケーニヒスベルクで戴冠(たいかん)した。外面を飾り、贅沢(ぜいたく)な宮廷生活を営んだが、学芸には理解があり、彼の治世中にハレ大学(1694)、芸術アカデミー(1696)および科学アカデミー(1700)が創設された。また妃のゾフィー・シャルロットのために華麗なシャルロッテンブルク宮殿を造営している。
[坂井榮八郎]
ドイツ皇帝、プロイセン国王(在位1888)。イギリスのビクトリア女王の第一王女ビクトリアと結婚し、彼女の影響などから自由主義思想に傾き、父王ウィルヘルム1世から王位継承権放棄を迫られたこともあった。自由主義者たちから「われらがフリッツ」とよばれ、父王とビスマルクとの政策にしばしば公然と反対した。他方プロイセン・オーストリア戦争(1866)やプロイセン・フランス戦争(1870~71)では司令官として戦功をたて、ビスマルクと協力してドイツ統一の功労者となった。彼の即位は自由主義者の期待を集めたが、喉頭癌(こうとうがん)に侵されて在位99日で死去し、国政に自己の意志を反映させることができなかった。
[岡崎勝世]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
ドイツ・ロマン派を代表する画家。ドイツの北限に近い,北海に臨むグライフスワルトGreifswald生れ。1794-98年にコペンハーゲンの美術アカデミーに学んだ後,ドレスデンに住み,小さな国内旅行を除き,生涯をここですごした。当時のドレスデンはアカデミーや,ザクセン選帝侯が集めた数々の名画(ドレスデン国立絵画館)によってドイツにおける美術の中心地の一つであったが,同時にベルリン,イェーナなどとともにドイツ・ロマン主義運動の中心地でもあり,フリードリヒの芸術もこうした運動の一環としてとらえることができる。もっぱら風景画のみを手がけたが,それ以前のプッサン,ロラン流の古典的風景画とも17世紀オランダの写実的風景画とも,ロココのピトレスクなそれとも異なる,画家の内面感情を自然に託した作品により風景画史に新生面を切り開いた。しかし初期の《山上の十字架》(テッチェン祭壇画。1808)や《海辺の僧侶》(1810)などは,そうした新しさのために時代からは理解されなかった。作風は,生涯を通して大きく変わることはなく,海,山,森,廃墟などを緻密な細部描写をまじえながら描き,色彩も北方の風土を象徴するように概して暗い。作品中に人間の占める比重はけっして大きくはないが,背面で描かれることの多い彼らは作者の内面感情の担い手として重要な意味をもっている。基本的なテーマは自然に託された神へのあこがれ,無限との交感,死と再生あるいは復活への予感でそれらを象徴的,主観的,あるいは寓意的に描いた。その意味で後の写実派や印象派の風景とも性格を異にする。彼の芸術は,死後長らく無視され,忘れられていたが,現在ではドラクロア,ターナーなどとともにロマン主義絵画を代表するものとして高い評価を得ている。なおP.O.ルンゲ,ダール,カールスら,フリードリヒの周辺に集い,ドレスデンで活動したロマン派の画家を〈ドレスデン派〉と呼ぶ。
執筆者:千足 伸行
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
… 彼の息子ルートウィヒは,1130年皇帝ロタール2世よりチューリンゲン方伯に叙せられ,37年グーデンスベルク家のヘドウィヒと結婚して,ヘッセン地方の大部分を得た。彼のあとを継いだルートウィヒ2世峻厳侯Ludwig II Eiserne(1128ころ‐72)は,皇帝フリードリヒ1世の妹ユーディットと結婚し,同帝とザクセン公ハインリヒ獅子公の対立にあたっては,もっぱら皇帝側の前衛として活躍した。次のルートウィヒ3世敬虔侯は,57年皇帝フリードリヒ1世のイタリア遠征に随行し,ハインリヒ獅子公との関係決裂にさいしては皇帝を助け,また第3回十字軍に参加して,90年帰途キプロスで死んだ。…
…そして,同家のハインリヒ獅子公は,事実上,旧部族領域全体に大公権を及ぼすとともに,北東方のスラブ人諸公国をも支配下におくことにより,ほとんど国王類似の地歩を北方に築くにいたった。しかし,このことが逆にシュタウフェン家の皇帝フリードリヒ1世との対立を不可避ならしめ,結局,1180年の裁判によって獅子公は失脚する。このとき,ザクセン大公領は解体され,大公権は,ケルン大司教に分与された南西部をのぞきアスカニア家Askanierに与えられたが,そのどちらもまた,後に再び大公位に昇格した(1235)ウェルフェン家も,みずからの大公権を基礎として旧ザクセン大公領を再建することができず,爾来この地域では多くの聖俗領邦の分立状態が定着する。…
…しかしこの両家の辺境伯たちはブランデンブルクに居住しなかったので,貴族や都市が独立化して領内の政治が乱れたばかりでなく,対外的にも,ラウジッツはボヘミアやザクセンに奪われ,ノイマルクは1402年ドイツ騎士修道会に売却された。15年にいたって,皇帝ジギスムントは,ホーエンツォレルン家のニュルンベルク城伯フリードリヒ6世を,ブランデンブルク辺境伯(フリードリヒ1世)に封じ,選帝侯位をも与えた(授封式典は1417年)。フリードリヒは領内の秩序再建につとめ,都市と結んで貴族の勢力をおさえ,また近隣諸侯の攻撃をもしりぞけて威信を高めた。…
…しかしこの両家の辺境伯たちはブランデンブルクに居住しなかったので,貴族や都市が独立化して領内の政治が乱れたばかりでなく,対外的にも,ラウジッツはボヘミアやザクセンに奪われ,ノイマルクは1402年ドイツ騎士修道会に売却された。15年にいたって,皇帝ジギスムントは,ホーエンツォレルン家のニュルンベルク城伯フリードリヒ6世を,ブランデンブルク辺境伯(フリードリヒ1世)に封じ,選帝侯位をも与えた(授封式典は1417年)。フリードリヒは領内の秩序再建につとめ,都市と結んで貴族の勢力をおさえ,また近隣諸侯の攻撃をもしりぞけて威信を高めた。…
…
[騎士修道会国家プロイセン]
プロイセン人は固有の部族宗教を奉じ,10世紀の末プラハ司教アダルベルトがこの地に布教を試みて殉教したのをはじめ,その後ポーランド王による一時的な支配とキリスト教化の努力にもかかわらず,13世紀初頭まで頑強にその政治的・宗教的な独立性を保った。1126年,ポーランドのマゾビア(マゾフシェ)公が,プロイセン人を服属させるためにドイツ騎士修道会を招致すると,皇帝フリードリヒ2世も勅状によってこの企てを是認し,占領地に対する支配権を約束した。騎士修道会は,およそ半世紀に及ぶ激しい戦闘を通じて,83年までにプロイセンの征服をなしとげ,皇帝・教皇の支持のもとで,帝国諸侯のそれに匹敵する強力な領邦主権をこの地にうち立てた。…
…始祖は南西ドイツ,シュワーベン地方の貴族で,本城があったツォレルンの丘から11世紀にこの家名が生まれた。1191年,当主フリードリヒ3世が結婚を通じてニュルンベルク城伯の位を得,フリードリヒ1世と称した。1227年,所領の分割相続により,フランケン系とシュワーベン系に分かれる。…
…しかしこの両家の辺境伯たちはブランデンブルクに居住しなかったので,貴族や都市が独立化して領内の政治が乱れたばかりでなく,対外的にも,ラウジッツはボヘミアやザクセンに奪われ,ノイマルクは1402年ドイツ騎士修道会に売却された。15年にいたって,皇帝ジギスムントは,ホーエンツォレルン家のニュルンベルク城伯フリードリヒ6世を,ブランデンブルク辺境伯(フリードリヒ1世)に封じ,選帝侯位をも与えた(授封式典は1417年)。フリードリヒは領内の秩序再建につとめ,都市と結んで貴族の勢力をおさえ,また近隣諸侯の攻撃をもしりぞけて威信を高めた。…
…しかしそれも長くは続かず,1539年に始まる宗教改革,16世紀後半のペストの流行(住民数8000程度であった両市で1576年に4000,98年には3000の死者),さらに直接の戦場にはならなかったものの三十年戦争などの影響を受け,両市は長い沈滞期を迎えた。 この沈滞に終止符を打ったのは,ベルリン生れの大選帝侯フリードリヒ・ウィルヘルム(在位1640‐88)であった。彼は1658年から85年にかけ,ベルリンとケルン,および1667年に市となったフリードリヒスウェルダーFriedrichswerderを囲む城壁を築き,これを城塞化するとともに,濠の外にウンター・デン・リンデンUnter den Linden通り(1647敷設)をはさむドロテーンDorotheen市を建設し,さらに,のちにベルリンの中心街となるフリードリヒFriedrich市の建設にも着手した。…
…改革派教会の教理問答。ファルツ選帝侯フリードリヒ3世(在位1515‐76)は領主となったのちルター派から改革派に改宗し,領内をこの信仰で統一すべくハイデルベルク大学の神学者に教理問答を作らせた。おもな起草者はウルジヌスZacharias Ursinus(1534‐83),助言者にオレウィアヌスCaspar Olevianus(1536‐87)がいた。…
…しかしこの両家の辺境伯たちはブランデンブルクに居住しなかったので,貴族や都市が独立化して領内の政治が乱れたばかりでなく,対外的にも,ラウジッツはボヘミアやザクセンに奪われ,ノイマルクは1402年ドイツ騎士修道会に売却された。15年にいたって,皇帝ジギスムントは,ホーエンツォレルン家のニュルンベルク城伯フリードリヒ6世を,ブランデンブルク辺境伯(フリードリヒ1世)に封じ,選帝侯位をも与えた(授封式典は1417年)。フリードリヒは領内の秩序再建につとめ,都市と結んで貴族の勢力をおさえ,また近隣諸侯の攻撃をもしりぞけて威信を高めた。…
…
[騎士修道会国家プロイセン]
プロイセン人は固有の部族宗教を奉じ,10世紀の末プラハ司教アダルベルトがこの地に布教を試みて殉教したのをはじめ,その後ポーランド王による一時的な支配とキリスト教化の努力にもかかわらず,13世紀初頭まで頑強にその政治的・宗教的な独立性を保った。1126年,ポーランドのマゾビア(マゾフシェ)公が,プロイセン人を服属させるためにドイツ騎士修道会を招致すると,皇帝フリードリヒ2世も勅状によってこの企てを是認し,占領地に対する支配権を約束した。騎士修道会は,およそ半世紀に及ぶ激しい戦闘を通じて,83年までにプロイセンの征服をなしとげ,皇帝・教皇の支持のもとで,帝国諸侯のそれに匹敵する強力な領邦主権をこの地にうち立てた。…
…これが戦争の発端である。
[ボヘミア・ファルツ戦争(1618‐23)]
ボヘミアの反乱軍にはオーストリアの新教徒も味方して蜂起し,トランシルバニア(ジーベンビュルゲン)侯も皇帝に反旗をひるがえして,反乱はボヘミア外にも拡大したが,その渦中の1619年に皇帝マティアスが死亡して,フェルディナント2世が皇帝位につくと,ボヘミア議会はフェルディナントのボヘミア王位を取り消して,新教連合の指導者ファルツ選帝侯フリードリヒ5世を国王に選んだ。このため戦争のドイツ全域への波及は不可避の形勢となったが,フリードリヒ5世がカルバン派であったことが災いして,多くの新教派諸侯の援助をうることができず,当時スペイン接近をはかっていた義父のイギリス王ジェームズ1世も動かなかった。…
…プロテスタントの抑圧者として知られるフェルディナント世(在位1619‐37)がハプスブルク家によってボヘミア王に指名されると,チェコのプロテスタント貴族は彼の即位を拒否し,1618年5月,派遣されてきた国王参事官をプラハ城の窓から外に投げ出す事件を起こした(三十年戦争の発端)。反抗する貴族たちはカルバン派のファルツ選帝侯フリードリヒ5世Friedrich Vをボヘミア国王に選んだ。これに対し,フェルディナントはスペインの支援を受けてチェコを攻撃し,1620年プラハ近郊のビーラー・ホラの戦でチェコ貴族の率いる傭兵軍を粉砕した。…
…この事件を契機として貴族たちの行動が激しくなり,国内からイエズス会士やカトリック高位聖職者が多数追放されるにいたった。19年8月,ボヘミア身分制議会は,フェルディナントを廃し,イギリス王ジェームズ1世の娘婿で,カルバン派のファルツ選帝侯フリードリヒ5世(ボヘミア国王,在位1619‐20)を新王に選んだ。これを反逆と見なしたフェルディナントは教皇,スペインなどの支援を受けて,傭兵軍を組織し,ボヘミアに攻め入った。…
…この宮中伯領は12世紀以降ライン川右岸地域にも広がり,その中心都市はハイデルベルクであった。13世紀はじめ皇帝フリードリヒ1世はこれをウィッテルスバハ家に授封,1356年の金印勅書で宮中伯は選帝侯に任ぜられた。1386年創立のハイデルベルク大学はこのファルツ選帝侯のつくった大学である。…
…三十年戦争で,1635年プラハ条約によりラウジッツが選帝侯領に加えられると,ドレスデンはエルツ山脈の鉱山地帯と広い農村繊維工業地域を後背地にして経済的に繁栄する。トルコ戦争に参加し,ポーランド王(アウグスト2世)も兼ねた選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世(強王)Friedrich‐August I(1670‐1733)の時代には,18世紀ドイツ・バロックの真珠といわれるフラウエン教会,ツウィンガー宮殿,日本宮殿なども建設され,マイセン磁器もこのころ始まる。3回にわたるシュレジエン戦争,ついでナポレオン戦争による戦禍を受け,政治的には衰退した。…
…また孤絶の美学を荒れ果てた墓地にもとめるT.グレーらの墓畔詩人もここから生まれた。さらにC.D.フリードリヒをはじめとするロマン主義の画家たちは自然の荒々しい力の隠喩を廃墟に認め,自我をもつ存在(個人)の内面的葛藤を際立たせる神聖な画題としてこれを描いた。また彼らにとって廃墟は,物質的な現実が滅び霊的な未来が訪れることの暗示でもあった。…
※「フリードリヒ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新