シュトレーゼマン(読み)しゅとれーぜまん(英語表記)Gustav Stresemann

デジタル大辞泉 「シュトレーゼマン」の意味・読み・例文・類語

シュトレーゼマン(Gustav Stresemann)

[1878~1929]ドイツ政治家。第一次大戦後ドイツ人民党結成。1923年、首相となって通貨安定・経済再建尽力。その後は歴代内閣外相として協調外交を推進し、ロカルノ条約締結国際連盟加入を実現した。1926年、ノーベル平和賞受賞。

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精選版 日本国語大辞典 「シュトレーゼマン」の意味・読み・例文・類語

シュトレーゼマン

  1. ( Gustav Stresemann グスタフ━ ) ドイツの政治家。はじめは国民自由党指導者。第一次世界大戦後ドイツ人民党創設、党首となる。一九二三年ワイマール共和国の首相兼外相となり、その後も歴代内閣の外相としてドイツの経済復興、国際的地位向上に尽力。一九二六年ノーベル平和賞受賞。(一八七八‐一九二九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「シュトレーゼマン」の意味・わかりやすい解説

シュトレーゼマン
しゅとれーぜまん
Gustav Stresemann
(1878―1929)

ドイツの政治家。第一次世界大戦前、ザクセン工業家団体の組織者として頭角を現し、国民自由党国会議員となった。大戦中は大規模な領土併合を支持する主戦派の一人として知られた。敗戦後、国民自由党の主流派を率いてドイツ人民党を創設、党首となり国会議員として活動。当初帝政復帰を掲げたが、やがて共和制の現実にたって、ブルジョア勢力を主体にして、社会民主党を含めた国民共同体を志向するようになった。1923年8月、ルール占領インフレの危機に際しワイマール共和国の首相として事態を乗り切った。以後死ぬまで歴代内閣の外相を務めた。彼は、ドイツの経済力の回復を基に、ドイツの強国への復帰、ベルサイユ体制の除去を目ざし、ドーズ案受け入れによる賠償問題の正常化、1925年のロカルノ条約、1926年ドイツの国際連盟加入など、内外の安定化を図って「シュトレーゼマン時代」といわれる外交上の一時期を築いた。1926年フランス外相ブリアンとともにノーベル平和賞を受けている。

[木村靖二]

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改訂新版 世界大百科事典 「シュトレーゼマン」の意味・わかりやすい解説

シュトレーゼマン
Gustav Stresemann
生没年:1878-1929

ドイツの政治家。第1次大戦前,ザクセン工業家連盟事務局長として中小企業を組織し,農業界・重工業界と対抗した。大戦中は,国民自由党の幹部として強硬な併合主義を唱え,戦後も帝政復帰,対外強硬論の立場からドイツ人民党を組織し,その党首となった。しかし,しだいにワイマール共和国の現実を肯定し,対外協調を通じてドイツの強国化をはかるようになった。1923年8~11月首相兼外相としてルール占領に対する〈消極的抵抗〉を放棄し,協調外交に転じた。以後29年10月の死まで外相にとどまり,24年ドーズ案,25年ロカルノ条約を締結し,26年にはドイツを国際連盟に常任理事国として加盟させ,協調主義外交の全盛期を作った。他方では,独ソ間の秘密軍事協力を支持し,26年には独ソ友好中立条約(ベルリン条約)を結ぶなど,ソ連と西欧の対立を利用してドイツの強国化をはかった。29年賠償問題をめぐるヤング案交渉中に死去した。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「シュトレーゼマン」の解説

シュトレーゼマン
Gustav Stresemann

1878~1929

ドイツの政治家。中小企業の指導者,世界政策の擁護者として頭角を現し,1907年国民自由党国会議員となる。第一次世界大戦では強力な併合論を展開。ドイツ革命後ドイツ人民党を創設,党首となる。23年同党から社会民主党を含む大連合内閣の首相となり,インフレーションの中,ゼネスト運動を押さえ,フランスに対する消極的抵抗を中止し,通貨の安定,経済の再建にあたった。3カ月で辞職。以後歴代内閣の外相として,西欧大国と協調しつつドーズ案ロカルノ条約の締結,国際連盟への加入,ヤング案の締結を推進する一方,ソ連との友好関係を維持し,ドイツの国際的地位の向上に努めた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シュトレーゼマン」の意味・わかりやすい解説

シュトレーゼマン
Stresemann, Gustav

[生]1878.5.10. ベルリン
[没]1929.10.3. ベルリン
ドイツの政治家。ベルリン,ライプチヒ両大学を卒業。実業家となり,1902~12年ザクセン工業家連盟を創設,法律顧問となった。 03年国民自由党に入党。 07~12,14~18年国会議員,17年国民自由党党首。君主主義者で激烈な汎ドイツ主義者であったが,18年帝政崩壊後は共和主義的協調論者に転向。同年 12月旧国民自由党右派を中心としたドイツ人民党を組織した。 23年「大連合」内閣首相兼外相としてルール紛争終結,中部ドイツの共産党蜂起の鎮圧,通貨安定に成功した。 23~29年外相としてドーズ案ヤング案の受諾,採用,国際連盟加入,ロカルノ条約の締結などによって,西方列強,特に対仏関係改善に努力。 26年フランスの A.ブリアンとともにノーベル平和賞受賞。 (→ドイツ賠償問題 )  

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百科事典マイペディア 「シュトレーゼマン」の意味・わかりやすい解説

シュトレーゼマン

ドイツの政治家。ザクセン工業界の出身。国民自由党に属し,第1次大戦中は強硬に戦争遂行を唱え,1917年党首となった。ドイツ革命後は人民党を創立,党首に就任。1923年挙国的な大連合内閣の首相となり,ルールにおける反仏闘争を中止させ,通貨安定と経済再建に当たったが3ヵ月で辞職。以後歴代内閣の外相として,協調外交によるドイツの国際的地位回復に貢献。1926年ノーベル平和賞。
→関連項目ブリアン

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旺文社世界史事典 三訂版 「シュトレーゼマン」の解説

シュトレーゼマン
Gustav Stresemann

1878〜1929
ドイツの政治家
初め国民自由党に属し,1918年ドイツ国家人民党を結成,23年首相・外相として「大連合」内閣を組織。内政では,レンテンマルクの発行により通貨の安定に成功し,ヴェルサイユ条約履行の基礎を築いたが,共産党の弾圧をめぐってドイツ社会民主党と対立し,首相を辞した。その後も歴代内閣で外相をつとめ国際協調政策をとり,ドーズ案の受諾,ロカルノ条約の締結,国際連盟加入などで,1926年フランスのブリアンとともにノーベル平和賞を受賞。しかし,その政策は大独占資本の復活の基礎を固めたもので,右翼の反動攻勢への道を準備した。

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世界大百科事典(旧版)内のシュトレーゼマンの言及

【ドイツ】より

…バイエルン・レーテ共和国崩壊(1919年5月)後のバイエルンでは,国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)を率いたヒトラーが,反ユダヤ主義でいっそう先鋭化された首伝説を唱えて,激しいインフレに苦しむ都市中間層の支持を集めたが,23年11月のミュンヘン一揆の挫折とともに,新しい模索の時期を迎えることとなる。
[ワイマール時代の安定と模索]
 革命とインフレ,そして1923年の〈ルール闘争〉に続いた〈相対的安定期〉には,外相シュトレーゼマンが国際協調外交を展開し,ドイツ経済の再建と秘密再軍備を外交面から保障するとともに,国際的地位の回復に努めた。この時期,産業界はドーズ案体制のもとでアメリカから資本を導入しつつ〈合理化〉運動を進め,その中で合同製鋼やIGファルベンなど巨大企業が成立。…

※「シュトレーゼマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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