ドイツの政治家。第一次世界大戦前、ザクセン工業家団体の組織者として頭角を現し、国民自由党国会議員となった。大戦中は大規模な領土併合を支持する主戦派の一人として知られた。敗戦後、国民自由党の主流派を率いてドイツ人民党を創設、党首となり国会議員として活動。当初帝政復帰を掲げたが、やがて共和制の現実にたって、ブルジョア勢力を主体にして、社会民主党を含めた国民共同体を志向するようになった。1923年8月、ルール占領、インフレの危機に際しワイマール共和国の首相として事態を乗り切った。以後死ぬまで歴代内閣の外相を務めた。彼は、ドイツの経済力の回復を基に、ドイツの強国への復帰、ベルサイユ体制の除去を目ざし、ドーズ案受け入れによる賠償問題の正常化、1925年のロカルノ条約、1926年ドイツの国際連盟加入など、内外の安定化を図って「シュトレーゼマン時代」といわれる外交上の一時期を築いた。1926年フランス外相ブリアンとともにノーベル平和賞を受けている。
[木村靖二]
ドイツの政治家。第1次大戦前,ザクセン工業家連盟事務局長として中小企業を組織し,農業界・重工業界と対抗した。大戦中は,国民自由党の幹部として強硬な併合主義を唱え,戦後も帝政復帰,対外強硬論の立場からドイツ人民党を組織し,その党首となった。しかし,しだいにワイマール共和国の現実を肯定し,対外協調を通じてドイツの強国化をはかるようになった。1923年8~11月首相兼外相としてルール占領に対する〈消極的抵抗〉を放棄し,協調外交に転じた。以後29年10月の死まで外相にとどまり,24年ドーズ案,25年ロカルノ条約を締結し,26年にはドイツを国際連盟に常任理事国として加盟させ,協調主義外交の全盛期を作った。他方では,独ソ間の秘密軍事協力を支持し,26年には独ソ友好中立条約(ベルリン条約)を結ぶなど,ソ連と西欧の対立を利用してドイツの強国化をはかった。29年賠償問題をめぐるヤング案交渉中に死去した。
執筆者:栗原 優
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1878~1929
ドイツの政治家。中小企業の指導者,世界政策の擁護者として頭角を現し,1907年国民自由党国会議員となる。第一次世界大戦では強力な併合論を展開。ドイツ革命後ドイツ人民党を創設,党首となる。23年同党から社会民主党を含む大連合内閣の首相となり,インフレーションの中,ゼネスト運動を押さえ,フランスに対する消極的抵抗を中止し,通貨の安定,経済の再建にあたった。3カ月で辞職。以後歴代内閣の外相として,西欧大国と協調しつつドーズ案,ロカルノ条約の締結,国際連盟への加入,ヤング案の締結を推進する一方,ソ連との友好関係を維持し,ドイツの国際的地位の向上に努めた。
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…バイエルン・レーテ共和国崩壊(1919年5月)後のバイエルンでは,国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)を率いたヒトラーが,反ユダヤ主義でいっそう先鋭化された首伝説を唱えて,激しいインフレに苦しむ都市中間層の支持を集めたが,23年11月のミュンヘン一揆の挫折とともに,新しい模索の時期を迎えることとなる。
[ワイマール時代の安定と模索]
革命とインフレ,そして1923年の〈ルール闘争〉に続いた〈相対的安定期〉には,外相シュトレーゼマンが国際協調外交を展開し,ドイツ経済の再建と秘密再軍備を外交面から保障するとともに,国際的地位の回復に努めた。この時期,産業界はドーズ案体制のもとでアメリカから資本を導入しつつ〈合理化〉運動を進め,その中で合同製鋼やIGファルベンなど巨大企業が成立。…
※「シュトレーゼマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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