日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブルネレスキ」の意味・わかりやすい解説
ブルネレスキ
ぶるねれすき
Filippo Brunelleschi
(1377―1446)
イタリアの建築家、彫刻家。本名Filippo di Ser Brunellesco。フィレンツェに生まれ、同地に没。ルネサンス建築を主導したこの大建築家は、初め彫刻家を志して金銀細工師の徒弟となった。1401年、フィレンツェ洗礼堂第二(北側)青銅門扉制作コンクールで優れた力量を示すが、制作者にはライバルのギベルティが登用された(2人のコンクール提出作『イサクの犠牲』はフィレンツェのバルジェッロ美術館蔵)。これより一転して建築に専心するようになり、まもなくローマに出る。彼は透視図法の理論的研究者としても重要であるが、建築におけるプロポーション(均整)を数学的法則によって求めようとし、研究対象に古代ローマの建築構造を選んだのである。
建築史上に彼の名を不朽にしたのは、1434年に完成したフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ(円蓋(えんがい))設計である。ブルネレスキはクーポラを二重殻構造とし、内外殻のすきまには補助材を格子状に巡らして内外殻を固定して、重量の軽減と構造の堅牢(けんろう)化を図っている。またクーポラの下部には石材、上部にはれんがを使用して重心の配分を考慮し、基底部は鉄と木材のリングで締めて横圧力を防いでおり、さらにクーポラを支える八角形のドラム(筒状壁体)の各側面に円形の大窓を開けて、強度を減じることなしに重量の軽減を意図している。このクーポラの断面に示されるゴシック式の尖頭(せんとう)アーチ形はその構造にとって必須(ひっす)のものであったが、ローマ建築固有のもろもろのモチーフを当代の建築に復活させようとするブルネレスキの意欲は、彼のほかの設計によく示される。その最初の事例は1426年に完成されたオスペダーレ・デリ・インノチェンティ(孤児救護院)の柱廊で、ここに円柱、半円形アーチ、半球形天井などの古代ローマの建築モチーフを応用して、典型的なルネサンス様式をつくりだした。これとほぼ時期を同じくして、サン・ロレンツォ聖堂の旧聖器室と身廊部、少し遅れてサント・スピリト聖堂を手がけるが、いずれも数学的なプロポーションと秩序とが入念に追求されている。
サンタ・クローチェ聖堂の修道院中庭に、1429~30年ごろブルネレスキによって起工されたパッツィ家礼拝堂は、集中式プランによるルネサンス建築の先駆をなすもので、円形、正方形を基本として設計されている。1434年に着工されて、最終的には完成されなかったサンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂は、内部の八角形のプランの各辺に八つの礼拝堂が放射状に配置され、外壁は多角形(十六角)をなし、ブルネレスキの集中式プランに対する志向がさらに進展をみせている。
[濱谷勝也]