イタリアの彫刻家,金工家,画家,建築家。イタリアにおけるゴシック末期からルネサンス初期にかけての彫刻の分野で指導的役割を果たす。少年時代フィレンツェの金工家のもとで修業を積んだが,1400年にペストを逃れてフィレンツェを去り,ペーザロの領主マラテスタCarlo Malatestaの宮廷で画家として雇われた。これら初期の活動を裏づける作品は現存しない。09年に金工師組合,23年に画家組合,26年には石工組合にそれぞれ登録されている。
彫刻家としての最初の確実な足跡は,毛織物組合の後援により1401-02年に行われたフィレンツェ洗礼堂第二門扉(現,北門扉)の制作者を決めるコンクールに,ブルネレスキやクエルチアらと参加したことである。最終的に彼が選ばれることになり,その際の試作品浮彫《イサクの犠牲》(ブロンズ)は,彫刻的というよりも絵画的効果に主眼が置かれ,ゴシックの線的リズムが構図を支配し,細部には金工家特有のきめ細かい仕上げが施されている。この洗礼堂第二門扉は,チュッファーニCiuffagni,ドナテロ,ウッチェロ,ミケロッツォたちの手を借り,約20年の歳月を費やして完成された。
この間にも,オルサンミケーレ教会のための《洗礼者ヨハネ》(1412-15)と《マタイ》(1419-22)の2点のブロンズ像,シエナ洗礼堂の洗礼盤浮彫(1417-27),《レオナルド・ダーティの墓碑板》などの制作に携わり,先の門扉と同様のゴシックの絵画的リズムをとどめつつも,古代美術の均衡のとれた造形構成への志向を見せている。25年,第二門扉完成に引き続き,後年ミケランジェロが〈天国の門〉と称した洗礼堂第三門扉(現,東門扉)の制作を委嘱された。今回もミケロッツォ,ゴッツォリらの助力を得,完成を見たのは52年であった。旧約聖書を10の場面に分け,第二門扉では断片的にしか用いなかった遠近法を積極的に駆使して構図空間の統一を図り,群像を有機的に関連づけ,さらに古代モティーフなどを導入するなど,ルネサンス彫刻家としての進取の姿勢を示している。彫刻家としての活躍以外に,サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(フィレンツェ)のステンド・グラスのデザイン(1404)を手がけ,1417-36年,ブルネレスキとともに同大聖堂のクーポラ(円蓋)架設に参加し,また1419年にはサンタ・マリア・ノベラ教会の〈教皇の間〉の階段設計に従事している。さらに教皇マルティヌス5世とエウゲニウス4世のために,金に宝石をちりばめた司教冠と留金なども制作している。それゆえに,当時のフィレンツェにおいてギベルティの工房は単に彫刻に限らず,絵画や金銀細工その他の分野の若い美術家たちにとって最良の修業場であったと思われる。死後,工房は息子ビットリオにより引き継がれた。ギベルティの回想録《コンメンターリ》は,自伝,美術史,美術理論などを含み,初期ルネサンス美術研究の主要文献の一つに数えられる。
執筆者:生田 圓
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イタリアの彫刻家。フィレンツェのサン・ジョバンニ洗礼堂の北側および東側のブロンズ門扉(もんぴ)の制作者として名高い。彼の主要な活動領域は彫刻であったが、そのほか建築、金属細工、著述にまで及び、初期ルネサンスにおけるもっとも著名な美術家の一人である。フィレンツェに生まれ、青年時代に一時生地を離れて、旅先で制作活動をしていたが、1401年に呼び戻され、洗礼堂北側門扉のコンテストに参加した。コンテストの課題は旧約聖書の物語「イサクの犠牲」であり、参加者は彼を含め7人であったといわれる。このときの応募作品のうち彼とブルネレスキによる2点のみがフィレンツェのバルジェッロ美術館に現存する。制作者に登用されたギベルティは1403年に制作に着手するが、門扉の構成は1336年にアンドレア・ピサーノが完成した南側のそれに倣って、扉を28個に枠どりし、キリスト伝などの諸場面を浮彫りで表現するものであった。1424年にひとまず北側門扉を完成し、翌1425年にはさらに東側門扉をも委嘱された。今度は構成を大幅に改め、10個の枠のなかに旧約聖書の諸場面を組み入れた。この門扉は1452年に完成するが、北側門扉の表現が国際的ゴシック様式を反映しているのに対し、東側門扉は古典的な伝統に立脚したルネサンス彫刻の出現を告げている。すなわち背景の建築構造に示された透視図法や、前景と後景との浮彫りの高低を際だてる彼独自の手法によって、奥行のある空間表現に成功している。この作品はミケランジェロの賛辞にちなんで「天国の門」と通称されるが、厚い金めっきが施され絵画的な表現効果を強めている。二つの門扉の間に認められるギベルティの様式上の急激な変化はドナテッロおよび古代彫刻の影響によるものと考えられる。彼の手になる丸彫り立像『聖ヨハネ』(1414・フィレンツェ、オル・サン・ミケーレ聖堂)は依然ゴシック様式であるのに対し『聖マタイ』(1422・同聖堂)には古典主義傾向がかなり目だっている。なお1447年ごろから着手された彼の著述『覚え書』I Commentariiは14、15世紀美術史研究の貴重な資料である。
[濱谷勝也]
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…西洋の文献では,たとえば大プリニウスの《博物誌》に前6世紀の彫刻家の自刻像に関する記載があり,また中世にもそれに類する逸話や作品が伝存するが,モデルを特定できる作例は14世紀末ころ以降となる。プラハ大聖堂の彫刻家P.パルラーの自刻像(1374‐85)は現存するもっとも古いものの一つで,フィレンツェ洗礼堂扉のギベルティのそれ(1426)などとともに,みずから関与した記念碑的建築や彫刻作品の一隅に自身の肖像を残したいとする念願の表現である。中国や日本では自画像の観念は西洋よりも希薄で,画僧明兆が淡路島に住む母親へ送ったという自画像(14世紀中ごろ)などは例外的である。…
…これを完成作品の予備段階として芸術的に劣ったものとみるか,あるいは芸術家の精神により直接的にかかわるものとして重要視するかは,時代により個人によって多様である。
[素描と素描論の変遷]
西欧ルネサンス期には,とくに素描の意義が重要視され,チェンニーニは,〈芸術の基本はディセーニョ(素描)と色彩にある〉と述べ,ギベルティは,〈素描は絵画と彫刻の基礎であり,理論である〉と述べ,L.B.アルベルティは,絵画の三要素は〈輪郭,構図,彩光(明暗)〉であるとし,この三要素のうちもっとも基本的なことは,〈空間と物体の境界〉としての〈線〉であるとした。これら初期ルネサンスの素描論の骨子は,空間と物体の明晰な認識とその表現の手段として,線による明確な輪郭づけが基本であるという考えである。…
…本名ドナート・ディ・ニッコロ・ディ・ベット・バルディDonato di Niccolò di Betto Bardi。梳毛工を父にフィレンツェに生まれ,1403年の記録ではギベルティの助手として名をあげられているので,おそらく彼の工房で彫刻の修業を積んだものと思われる。彼の確実な初期作品の一つである《ダビデ》(1408‐09,フィレンツェ,バルジェロ美術館)には,いまだゴシック様式をとどめているものの,ギベルティの優雅さやナンニ・ディ・バンコNanni di Bancoの荘重な量塊感覚とも異なる,対象への深い内面的洞察から生まれたエネルギーが,写実的造形手法とともにうかがえる。…
…公証人の息子としてフィレンツェに生まれ,絹織物業組合登録の金細工師として修業したのち彫刻家となる。1401年,サン・ジョバンニ洗礼堂北側門扉のブロンズ製レリーフ・パネルの制作競技に応募,〈イサクの犠牲〉を作ってギベルティと競い,入選を逸した。このころ,同洗礼堂と市庁舎を2枚の透視図(現存せず)に描き,アルベルティが理論づけた透視図法の創始者に数えられる。…
※「ギベルティ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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