イタリアの画家。本名はトンマゾ・ディ・ジョバンニTommaso di Giovanni。トスカナ地方のサン・ジョバンニ・バルダルノSan Giovanni Valdarnoの公証人の家に生まれ,1422年にフィレンツェの画家組合に登録される。師は明らかではないが,同時代人で交友関係もあったとされる建築家ブルネレスキと彫刻家ドナテロから影響を受けたことは確かであろう。近年発見された現存する彼の最初期の作品《サン・ジョベナーレ三連祭壇画》(1422。ウフィツィ美術館)において,すでに正確な透視図法による空間構成を見せ,続くマソリーノ・ダ・パニカーレとの共作《アンナと聖母子》(ウフィツィ美術館)では,聖母子の像に堅固で彫刻的な存在感を賦与している。両作品とも,当時イタリアで流行していた装飾性に富んだ貴族趣味的な国際ゴシック様式をまったく排している。フィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ教会の献堂式の模様を描いた,バザーリ激賞の《サグラ》は16世紀に破壊されてしまったが,同教会内ブランカッチ礼拝堂cappella Brancacciのマソリーノ・ダ・パニカーレとの共作による壁画は,イタリア・ルネサンス絵画の誕生を告げる記念碑となっている。マサッチョが担当したのは《楽園追放》《貢の銭》《洗礼を施すペテロ》ほか2場面で,《楽園追放》では強い明暗効果により,自己の犯した罪に慟哭(どうこく)するアダムとイブの姿を浮彫にし,約1世紀後のミケランジェロの同一主題の作品(システィナ礼拝堂)をもしのぐほどの迫真性を見せている。また《貢の銭》では,線遠近法に空気遠近法を加えて現実感に富んだ三次元の空間を作り,そこに人物像を有機的に配して,異時同図の画面を統一のある合理的なものに構成している。さらに各場面の光源を一点(この場合は礼拝堂の窓に一致)に定めたのも画期的である。バザーリは,ボッティチェリ,ミケランジェロ,ラファエロをはじめとする後世の美術家たちが,この礼拝堂で修業したことを伝えている。
26年に制作された《ピサの多翼祭壇画》のうち,現存する中央パネルの《聖母子と奏楽天使》(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)でも合理的な画面処理が施され,石像彫刻を思わせる堂々とした聖母子を,建築のような構築性をそなえた玉座に収め,低い視点からとらえて,その記念碑的性格を高めている。フィレンツェのサンタ・マリア・ノベラ教会の《聖三位一体》は,ブランカッチ礼拝堂の下段の壁画と並行して描かれたと想像される。〈あたかも壁を貫いているように〉描かれた礼拝堂に適用された遠近法の正確さ,下から見た聖母の顔の短縮,寄進者夫妻の相貌描写に見られる鋭い写実性など,同時代の画家には求められえない。28年におそらくマソリーノ・ダ・パニカーレに呼ばれてローマに行き,サンタ・マリア・マッジョーレ教会のための三連祭壇画のうち,《ヒエロニムスとバプテスマのヨハネ》のパネルを絶筆として,同地で没した。バザーリによれば,マサッチョはその才能をねたまれて,何者かに毒殺されたとしているが,真偽のほどは定かでない。
執筆者:生田 圓
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イタリアの画家。本名Tommaso di Ser Giovanni di Mone。マサッチョは通称。トスカナ地方の山村サン・ジョバンニ・バルダルノ生まれ。1422年フィレンツェに出て、28年にローマに赴くまでこの都市で制作活動を続けるが、この年27歳でローマに没している。彼の真筆として確実視される制作は4か所に残されているが、そのうち、フィレンツェのサン・タンブロッジョ聖堂の祭壇画として描いた『聖母子と聖アンナ』(1424~25・ウフィツィ美術館)と、同市サンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂内ブランカッチ礼拝堂に制作した『貢(みつぎ)の銭(ぜに)』を含む一連の壁画は、マソリーノとの共作である。あとの二つは、26年にピサのカルミネ聖堂のための三幅対祭壇画(現在解体されてピサ、ナポリ、ロンドン、ベルリン、ウィーンの各美術館に分散所蔵)と、25年前後にフィレンツェのサンタ・マリア・ノベッラ聖堂に描いた壁画『聖三位(さんみ)一体』である。
初期ルネサンス美術でマサッチョが果たした役割は画期的なものであったが、これには同時代の先達、建築家ブルネレスキと彫刻家ドナテッロに負うところが大きかった。ブルネレスキから学んだ透視図法は『聖三位一体』に端的に反映しているし、ドナテッロからは『聖母子と聖アンナ』などにみられる硬い彫塑的なモデリングを会得している。彼の最大の功績は人体や衣装の表現に光の効果を導入したことで、それによって高められた色彩効果は、その後の画家にとって斬新(ざんしん)な指針となった。なお、フィレンツェと彼の出生地との中間に位置する寒村カッシアのサン・ジョベナーレ聖堂で発見された、聖母子に諸聖者を配した三幅対祭壇画(1422年4月23日と制作時の銘記がある)をマサッチョの最初期の制作とみなす説が近年たてられ、作品自体はウフィツィ美術館に所蔵されている。
[濱谷勝也]
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…しかし,プラハを中心とするボヘミアではフス戦争,フランスではアザンクールの敗戦,ベリー公の死,ブルゴーニュ公のディジョンからブルージュへの遷都などを機に,1420年代から芸術的活動は急速に衰退する。ドイツ,イタリアでは1450年代まで国際ゴシック様式の作例がみとめられるとはいえ,1420年代になると,イタリアでのマサッチョ,ネーデルラントでのファン・アイクの作品に示されるように,絵画表現から国際ゴシック様式の童話的幻想性は払拭され,その世界は量感と質感をもっていっそうの迫真性を加えて表現され,新たな時代の到来がみとめられる。【冨永 良子】。…
…彫刻家ドナテロは,古典的均衡を示す人体と,ゴシック的な強烈な感情表現との両極端の間を揺れ動きつつ,人間の精神と肉体の真実の描出に到達した。画家マサッチョは,空間表現と人体の量感の描出,さらに人間感情の表出という初期ルネサンス絵画の目標を一挙に達成した。15世紀半ば以降のフィレンツェの彫刻・絵画は,前半の雄勁な様式,人間性表現の理想から,繊細な線描様式による詩的情緒の表現や装飾性,あるいは細部写実に向かった。…
※「マサッチョ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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