フランスの小説家。通称アベ・プレボーAbbé Prévost。北フランスのエダンの名家に生まれ,イエズス会の学院で学んだ後,軍務と聖職の間をゆれ動いたが,結局聖職者の道を選び,ノルマンディー地方のベネディクト会の諸修道院をめぐった。1728年文才を買われてパリに呼ばれ,《フランス教会史》の編集に加わる。同年長編小説《隠遁した一貴族の回想と冒険》の第1・2巻を出版後,修道院を出奔。イギリス,オランダを放浪し,生活に困り偽手形を出して投獄されたこともあった。34年,以前の上司のとりなしでローマ教皇から特許状を与えられ,パリに戻り,36年コンティ公付き司祭となる。以後は筆禍事件でブリュッセルにのがれたこともあったが,ほぼ平穏裡に著述に専念した。放浪時代の作,《一貴族の回想》(1728-31)の最終第7巻が有名な《マノン・レスコー》である。本編から独立したこの物語は,本能のままに生きる女主人公を一途に愛し,その身の破滅も辞さない青年を描いた傑作である。この一編のため,従来他の作品はあまり注目を浴びなかったが,《イギリスの哲人。別題,クリーブランド氏の物語》(1731-39),《キルリーヌ僧院長》(1735-40)の長編や,中編《当世ギリシア娘の物語》(1740)を含む小説群は近年再評価されつつある。リチャードソンの《クラリッサ・ハーロウ》のフランス語訳(1751)などイギリス小説を翻訳したほか,文芸新聞《弁護と反駁》(1733-40)を刊行し,英文学の紹介や英仏文化の比較に健筆を振るった。これら英文学の紹介や《マノン・レスコー》により,19世紀ロマン主義の先駆をなしたといえよう。ほかに地理的知識の普及に貢献した《旅行総史》(1746-59)がある。
執筆者:中川 信
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フランスの小説家。通称アベ・プレボーl'abbé Prévost。アルトワのエダンに生まれ、イエズス会系の学校で学業を終えたのち、軍隊に入隊するが、以後いくつかの修道会と軍隊を転々とするといった、波瀾(はらん)に富む青年期を送った。この間、オランダとイギリスにも滞在している。
修道生活中から、プレボーは『隠棲(いんせい)したある貴人の回想録』(1728~31)という膨大な作品集を準備していたが、その七巻目を別巻で出版したのが『マノン・レスコー』(正しくは『シュバリエ・デ・グリューとマノン・レスコーの実話』La véritable histoire du chevalier Des Grieux et de Manon Lescaut)であり、今日一般にはプレボーといえば『マノン・レスコー』一作の作者としてだけ知られているほど、この作品は有名である。この小説は著者の多感な青年時代を思わせる自叙伝的要素の強い作品とも考えられており、すべてをなげうって激しい情念を燃え尽くすデ・グリューと小悪魔的に美しいマノンの恋愛は、プレボーの宗教観の投影もあって、現世では成就(じょうじゅ)できない宿命を帯びていることからもその観が強い。
ほかに彼の文学上の功績としては、同時代のイギリスの作家リチャードソンの作品のフランス語訳があげられ、とくに『パミラ』Pamela(原作1741、仏訳1742~43)は彼の翻訳によって広くヨーロッパに膾炙(かいしゃ)したことは重要である。1763年、シャンティイで脳卒中のために他界した。
[市川慎一]
フランスの批評家、小説家。サン・ピエール・ヌムールに生まれる。高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)卒業後、『NRF(エヌエルエフ)』系の批評家として文壇に登場。知性、内観、祈りを通して、肉体や自然との調和を図り、ひいては魂の本質に迫る探究を試みた(『内観試論』Essai sur l'Introspection1927)。また、伝記的要素にほどよい小説家的想像力を交えた佳作『モンテーニュの生涯』La vie de Montaigne(1927)を書く。彼の批評は、作品を構成するテーマを織り合わせ、文学的インスピレーション形成の現場に立ち会うことに成功する(『スタンダールにおける文学的創造』1942、『ボードレール』1953)。
また、小説の代表作『ブーカンカン兄弟』Les frères Bouquinquant(1930)で、三角関係のもつれを描いて通俗に陥らなかったのは、作者が人間の勇気や誇りに十分な照明を与えたからである。第二次世界大戦中、レジスタンス運動に参加、ドイツ軍に殺された。
[松崎芳隆]
フランスの小説家。パリの生まれ。理工科大学校(エコール・ポリテクニク)出身の技術者であったが、文学にひかれ、小説『愛人の告白』Confession d'un amant(1890)の成功で反自然主義作家として世に出る。『女の手紙』Lettres des femmesシリーズ(1892~1897)、『フランソアーズへの手紙』Lettres à Françoise(1902~1912)など一連の作品は、世紀末ブルジョア社会の風俗とモラルを皮肉に描くが、心理的深みに欠ける。代表作『半処女』Les Demi-Vierges(1894、劇化1895、映画化1923、1936)も、あらゆる堕落にしみながら、肉体の処女のみを守る当代パリ娘風俗を描いてスキャンダルをよんだゆえの成功というにとどまる。
[小林 茂]
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…政府は1712年の印紙税などによって批判的な言論をおさえようとしたが,ジャーナリズムの勢いは衰えなかった。フランスではP.マリボーの《スペクタトゥール・フランセSpectateur Français》(1722‐23),A.F.プレボーの《プール・エ・コントルLe Pour et Contre》(1733‐40)などが相次ぎ,ルイ王朝の弾圧に遭ってオランダへ亡命した人たちが刊行した雑誌だけでもフランス革命にいたるまで30をかぞえる盛況を示した。ドイツではF.ニコライの創刊した《ブリーフェBriefe,die neueste Litteratur betreffend》(1759‐65)誌に,レッシングやM.メンデルスゾーンが編集委員として参加し文芸雑誌の伝統をつくった。…
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