日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヘーゲル哲学の基本概念」の意味・わかりやすい解説
ヘーゲル哲学の基本概念
へーげるてつがくのきほんがいねん
定有(ていゆう)・定在(ていざい)・定存在(ていそんざい)
いずれも原語はDaseinで、「規定された存在、質をもつ存在」の意。ヘーゲル以外の哲学者の用語としては「現存在」と訳されるが、それは「現に目の前に現れている」というところに強調点があるからである。ヘーゲルでは「一定の具体的な実在物」のこと。たとえば「食塩」「酸素」「農民」「所有物」など。定有は質を身につけている。すなわち、他のものとの差異、性質上の限界、制限を自分の性質としてもっている。定有は、限界を身の周辺につけている(an ihm)だけではなくて、限界を自分の核心に(in sich)体して(an sich)いる。しかし限界という規定はその定有の否定である。ゆえに定有とは、自己の否定を自己の内に含む存在である。また、定有は本性の現れ、示現、権化、托身(たくしん)、受肉である。たとえば、私の所有物は私の所有権の定有である。国家は自由の定有である。
自己内反省(じこないはんせい) Reflexion in sich
他者・外部に向かっていた関係が反射し、折れ曲がって自分の内に返り、自己関係を成立させて、自己を独立・単独の自立した存在、すなわち対自存在Fürsichseinとすること。意識の場合には、外部の対象に関係する態度から、志向・関心を内に向けて自己内に反省することで、外部対象にとらわれたあり方(対他存在)から、自立したあり方に転換する。物の場合、他の物との比較によって規定されたあり方から、内在的な性質を担う自立体としてとらえられるに至ること。
客観精神(きゃっかんせいしん) objektiver Geist
かならずしも自覚されてはいないが、文化、制度、習慣のなかに実現されている精神。たとえば、盗みを否定する文化には、所有権という精神が実現されているが、「所有権の擁護は正義である」と自覚されているとは限らない。
市民社会(しみんしゃかい) bürgerliche Gesellschaft
自由な市場経済活動の営まれる分業化された社会を、家族からも国家からも明確に区別して術語化したのはヘーゲルの歴史的功績である。マルクスの場合には、同じことばが「ブルジョア社会」と訳され、歴史の一段階としてとらえられるが、ヘーゲルでは、あらゆる歴史社会の構造として「市民社会」が組み込まれている。分業は欲望を抽象化する。靴屋にとって靴は「使用すべきもの」ではない。交換を媒介としなければ欲望は現実化されない。しかし、交換は他人の所有権の相互承認の社会的な現実化であり、交換は権利・法という理念を生み出すので、一面で市民社会は国家の根底であるが、市民の自由な利益追求は国家の精神的な統合を破壊する。市民社会が家族とともに人倫性の契機として有機的全体に組み込まれなければならない。
契機(けいき) Moment
多面的な要素から構成される実在の一側面。たとえば「消費」は商品交換の契機である。消費という要素だけでは交換は成り立たないが、消費という契機なしにも交換は成り立たない。もともとは力学の「モーメント」の概念からとられた概念で、たとえば、梃子(てこ)やさお秤(ばかり)では、重力を支える力の分力がさおの長さで表現される。このとき実在の全体性に対して、契機の一面性・抽象性を「観念性」とよぶ。有限なもの、一面的なものの観念性を認識することが「観念論」の立場である。
正(せい)・反(はん)・合(ごう) These, Antithese, Synthese
「正立・反立・総合」を略して「正・反・合」とよぶ。たとえば「存在・無・生成」において、生成は存在(正)と無(反)の対立を克服し、高め、その両契機を保存する、すなわち止揚する「合」の段階である。この概念は本来ヘーゲルのテキストには存在しないもので、フィヒテの概念をヘーゲル哲学の説明に援用したものにすぎないが、非常に多くの用語辞典ではヘーゲル自身が用いた概念であるかのように誤って伝えられている。〈正・反・合〉
止揚(しよう) Aufheben
「揚棄(ようき)」とも訳される。否定・保存・高揚という三義を含む。ヘーゲルはこの三義を三位(さんみ)一体とみなし、弁証法の根本要素とした。〈止揚〉