フィッシャー・フォン・エルラハ
Johann Bernhard Fischer von Erlach
生没年:1656-1723
オーストリアのバロック建築家。グラーツで彫刻家の子として生まれる。少年期より約15年間ローマに滞在し,G.L.ベルニーニの影響を受け,またC.フォンタナの下で建築家として育った。1685年ごろ,ウィーンで活動を始め,1704年には宮廷建築家の地位を得て,それまでウィーンで活動していたイタリア人建築家たちに取って代わる。ハプスブルク家の下に独自の視野の広い建築文化を形成し,その様式は〈帝国バロック〉と呼ばれた。作品にはバロック教会堂カールスキルヘ(ザンクト・カール・ボロメウス教会。ウィーン,1716以降)を筆頭に,三位一体教会(ザルツブルク,1702),コレギエンキルヘ(ザルツブルク,1705)などの教会堂のほか,アトランティス像柱で飾った階段室で著名なオイゲン皇子邸(ウィーン,1698),壮大なシェーンブルン宮殿(ウィーン,1713)などの宮殿や,宮廷図書館(ウィーン,1723以降)などがある。作風は,明快な楕円形モティーフなどイタリア・バロックを発展させつつ,さらに雄大さを加えた点を特徴とする。最初の世界的建築史書とされる《歴史的建築試論》(1721)を出版。これはエジプトなどの古代文明や極東の建築の想像復元図を収録し,建築家の視野の拡大を具現した記念的書物である。また,18世紀末の大革命期フランスの建築にも影響を及ぼしたとされている。
執筆者:杉本 俊多
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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フィッシャー・フォン・エルラハ
ふぃっしゃーふぉんえるらは
Johann Bernard Fischer von Erlach
(1656―1723)
オーストリアの建築家。グラーツに生まれ、初め彫刻を志すが、1682~86年ローマでカルロ・フォンタナに師事し、ザルツブルク、ウィーン、プラハで教会と宮殿建築に活躍した。彼の様式は、イタリア盛期バロックとフランス初期古典主義および古代末期の諸要素を融合したもので、ウィーンのシェーンブルン宮殿(1696~1706)、同カールス教会(1716~37)にみられるように、王権と教権との結合を基本理念としている。96年貴族の称号を受け、1706年宮廷建造物監督官に任ぜられた。各時代様式を折衷した銅版画集『歴史的建築の構想』(1721)がある。ウィーンに没。息子ヨーゼフ・エマニュエル(1693―1743)もウィーンの宮廷建築家として父の遺業を継ぎ、フランス古典主義に接近した。
[野村太郎]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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フィッシャー・フォン・エルラハ
Fischer von Erlach, Johann Bernhard
[生]1656.7.20. グラーツ
[没]1723.4.5. ウィーン
オーストリアの建築家,彫刻家。 1670~86年ローマに滞在,P.ショールや G.ベルニーニの工房で修業。ウィーンとグラーツで彫刻家,庭園設計家として働き,のち建築活動を始める。 89年ハンガリー王ヨーセフ1世の建築学教師に奉職して以降,王室建築家としての地位を築く。 90年に2つの凱旋門と王宮,シェーンブルン宮殿を設計し,ウィーンの貴族やザルツブルクの司教などのために多くの城館,聖堂などを制作。ウィーンのカルルスキルヘ (1716起工) の競技設計入賞を機に,宮廷図書館 (23起工,のちのオーストリア国立図書館) を設計。独自の古典主義的形態にバロック様式を結合させ,ヨーロッパ北部におけるバロック建築の第一人者となる。他の代表作にトラウトソン宮 (09,ウィーン) がある。主著は『歴史的建築図集』 Entwurf einer historischen Architektur (21) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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フィッシャー・フォン・エルラハ
オーストリア後期バロックの代表的建築家。初め彫刻家を志したが,1670年―1687年ローマでベルニーニに学び,建築に転向し,ウィーンを中心に活動。壮大な空間構成を特色とした。代表作とされるウィーンのザンクト・カール・ボロメウス教会は1716年に着手,死後息子のJoseph Emanuel Fischer〔1693-1742〕の手で完成された。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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世界大百科事典(旧版)内のフィッシャーフォンエルラハの言及
【ザルツブルク】より
…ラテン十字形プランをもち,2塔式の正面は明るいザルツブルク大理石で造られている。また,ウィーンの宮廷建築家[フィッシャー・フォン・エルラハ]の造営した教会が四つあり,なかでも三位一体教会は,バロックの建築家ボロミーニのサンタニエーゼ教会(ローマ)に倣ったもので,西正面を内にくぼませ,双塔間から力強い丸屋根を突き出させる。内部のフレスコ画はロットマイアーJ.M.Rottmayrによる(1700)。…
【シェーンブルン宮殿】より
…トルコ軍による第2次ウィーン包囲の撃破(1683)を記念して,神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世がベルサイユ宮殿に対抗して発案。[フィッシャー・フォン・エルラハ]による当初の設計案は丘陵地を利用した壮大な規模のもので,世界中のさまざまのモティーフを含んで数寄に富んでいたが,後に縮小され,狩猟城館として着手された。後にマリア・テレジアなどの下に,内装を含む設計変更がなされ18世紀中ごろに完成。…
【ドイツ美術】より
…とりわけ,感覚的な視覚体験を重視するカトリック的宗教心情は,18世紀の,バイエルンからプラハへかけての南方の教会堂建築のなかに,そのもっとも輝かしいモニュメントを生み出す。 フィッシャー・フォン・エルラハはバロック期が生んだ最初の地元出身の建築家の一人で,ボロミーニやグアリーニらのイタリア人の影響を受けながら,ウィーンのザンクト・カール・ボロメウス教会(1716起工)に古代の要素を取り入れた勇壮な形態を創造した。ドナウの河岸にそびえるメルク修道院(1702‐36)はプランタウアーの設計になり,教会堂を中心に修道院の建築群を集めるこの時期の壮大な建築プランの典型をなす。…
※「フィッシャーフォンエルラハ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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