中国広東(カントン)省生まれのアメリカの建築家。父親は銀行家で、一家は1935年にアメリカに移住。1940年マサチューセッツ工科大学建築学科を卒業する。卒業設計はAIA(アメリカ建築家協会)ゴールド・メダルなど数々の賞を受賞する。1942年にハーバード大学GSD(大学院大学デザイン・コース)に入学し、グロピウスやブロイヤーに学ぶが、休学してプリンストンの国防研究所で働き、1944年復学し、1946年に修了する。修了後、助教授として同大学に勤める。1948年不動産会社ウェブ・クナップに入社、建築設計部門を設立し、大規模な建築の設計や都市計画を行う。1954年アメリカ市民権を得る。
1955年設計事務所I・M・ペイ&アソシエイツ(のちに名称をI・M・ペイ&パートナーズに変更)を設立し、国立大気研究センター(1967、コロラド州)、ハーバード・ジョンソン美術館(1973、ニューヨーク)の設計で注目を浴び、ダラス市庁舎(1977、テキサス州)をはじめとする大規模な公共建築設計の機会に恵まれる。
ペイの建築の特徴は、現代彫刻にも似たシンプルな幾何学的ボリュームの構成である。ナショナル・ギャラリー東館(1978、ワシントンDC)やジョン・F・ケネディ記念図書館(1979、ボストン)、ジェイビッツ・コンベンションセンター(1986、ニューヨーク)などにおいては、ガラスで囲われた透明感のある立体的な架構による空間と、石張りによるマッシブなボリュームが対比される。ルーブル美術館増築(1989、パリ)は20世紀にふさわしい新しい美術館(グラン・ルーブル)を目ざした大改修であるが、歴史的な施設である中庭にピラミッド型の天窓を導入し、地下への採光を確保するという大胆な改修案を提案した。計画案が出されたときは賛否両論が巻き起こったが、当時の大統領ミッテランの裁量で計画は続行され、実現に至った。建築界だけではなく、広く一般に建築家ペイの名を知らしめた世界的な事件であり、ペイの国際的な知名度を高めた。
海外の作品で国際的な名声を得たペイは、故郷に錦を飾るべく、中国でホテル設計の機会を得た。低層で伝統的な庭園の中庭をもった、フレイグラント・ヒル・ホテル(1982、北京(ペキン))である。そして中国銀行(1989、香港(ホンコン))は、ペイのモダニスト建築家としての頂点にある建築である。香港にはノーマン・フォスターによるハイテックな香港上海(シャンハイ)銀行がすでに建てられており、ライバル銀行のデザインがどのようなスタイルでできあがるか、衆目を集めた。その結果はペイらしい、ガラスによるシャープなエッジが強調されたマッシブなタワーであった。
ペイは日本では宗教関連施設を設計している。神慈秀明(しんじしゅうめい)会神苑、カリヨン塔(1990)、同会の私設美術館、MIHO MUSEUM(1997、いずれも滋賀県)である。どれもモニュメンタルな施設であるが、ペイの確かな造形力とそれを実現するための構造やディテールをまとめる、並々ならない力をみてとることができる。
1983年プリツカー賞、1989年(平成1)には世界文化賞を受賞。
[鈴木 明 2018年11月19日]
『『SD』編集部編『現代の建築家 I. M. ペイ・アンド・パートナーズ』(1983・鹿島出版会)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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