イスラエルの政治家。シオニズム運動の指導者、初代首相。ポーランドのプロンスクに生まれ、早くからシオニズム青年組織に参加。1906年パレスチナへ移住し、シオニズム運動の活動家となる。1920年ヒスタドルート(労働総同盟)を結成し、その書記長となる。1930年マパイ党を結成し、1965年まで指導。1933年ユダヤ機関の執行部メンバーとなり、1935~1948年その議長。1947年国連のパレスチナ分割決議後、民族評議会議長に選ばれ、安全と防衛の責任を担った。独立後1948年5月臨時政府の首相兼国防相となり、翌1949年正式に首相兼国防相に就任し、1953年まで務める。1955~1963年ふたたび首相兼国防相となる。1965年マパイ党を去り、新党ラフィを結成するが、第三次中東戦争後に、ラフィがマパイ、アフダト・ハボダと合体してイスラエル労働党を結成したときには、これに不参加。1970年政界引退。イスラエル独立の象徴的存在である。著書に『イスラエル――私史』Israel : A Personal Historyがある。
[伊能武次]
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イスラエルの政治家,初代首相。ポーランドのブロンスクでユダヤ人の両親の下に生まれる。ポーランドのシオニスト青年組織で活躍した後,1906年パレスティナに移住。第1次大戦中の15年オスマン帝国当局により追放され渡米したが,18年にパレスティナに戻り,イギリス軍の下でユダヤ軍団を組織してオスマン帝国と抗戦した。20年ヒスタドルートHiṣtadrut(ユダヤ労働総同盟またはイスラエル労働総同盟)を結成し書記長となり,30年マパイ党(後の労働党)を結成し党首となり,35-48年ユダヤ機関議長となるなど,委任統治下のパレスティナでユダヤ国家樹立のため指導的役割を果たした。48年5月14日自ら中心となって起草したイスラエル独立宣言を発し,直ちに臨時政府の首相兼国防相となる。49年の第1回総選挙で首相兼国防相。53年12月いったん辞任したが,55-63年再び首相に就任。70年6月政界を引退した。著書に回想録《イスラエル》(1971。邦訳名《ユダヤ人はなぜ国を創ったか》)などがある。
執筆者:木村 修三
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1886~1973
イスラエルの政治家。ポーランド生まれ。イスタンブルで学び,シオニスト系労働運動にも従事した。第一次世界大戦中トルコ政府から追放されると,アメリカでユダヤ人部隊を組織し,パレスチナで戦った。1921~33年にはパレスチナ労働党書記長,33年世界シオニスト機関執行委員,35年同委員長。第二次世界大戦後イスラエルの独立が承認されると,48年首相兼国防相に就任し,国政の指導にあたった。
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